日比谷の図書館へ行ってみた。が、そこのカタログには、幾度繰り直しても、見出されなかった。
「ああ上野、あそこが唯一のしかも最後の希望だ」彼はもう日が暮れかかっていたにもかかわらず、後へ引っ返した。あの鉄の三層の階段を、どんなに急いで駆け上ったか、そして、どんなにときめく心と険しい目付とをもって Fine Arts――Sculpture の項を、探ったことだろう。そこで、運よく本当に運よく Gardener――The Manuscript of Greek Sculpture という字を見出した時に、譲吉の心はどんなに嬉しかっただろう。
「ああ、やっと救われたな」と、思った。
彼は、その翌日から毎日のように、上野の図書館へ通った。が、その仕事がどんなに退屈で不便であっただろう。自分が本を持っていた時には、朝起きた時のしばらくとか、床に就く前の二、三時間などに執る筆が、どんなに仕事を進捗せしめたことだろう。が、仕事の場所が制限され、従って時間が制限されることによって仕事は少しもはかどらなかった。と、同時に仕事そのものが、いよいよ苦しくなっていった。
が、彼は根よく二、三カ月、毎日、その仕事をつづけていった。彼は、唯一の金儲けの方法として、その仕事を続けていった。その後、その書肆《しょし》が破産したために、本当は一文にもならなかった仕事を、一生懸命に熱心に続けていったのだった。
彼は、大仏の前を動物園の方へと、道を取りながら、そんなことを取りとめもなく考えていた。その頃のみじめな自分のことを考えると、現在の自分の境遇が別人のように幸福に思われた。月々貰っていた五円の小遣いから、毎日の電車賃と、閲覧券の費用とを引いた残りで、時々食っていた図書館の中の売店の六銭のカツレツや三銭のさつま汁のことまで、頭の中に浮んだ。あの慎ましかった自分の心持を思うと、その頃の自分が、いとしく思わずにはおられなかった。
昼でも蝙蝠《こうもり》が出そうな暗い食堂や、取りつく島もないように、冷淡に真面目に見える閲覧室の構造や、司書係たちのセピア色の事務服などが頭に浮んだ。その人たちの顔も、たいていは空《そら》で思い浮べることがあった。
「ああそうそう、あの下足番もいるなあ」と思った。あの下足番の爺《おやじ》、あいつのことは、時々思い出しておった、と思った。それは、譲吉が高等学校にいた頃から、あの暗い地下室に頑張っている爺だった。
上野の図書館へ行ったものが誰も知っているように、正面入口に面して、右へ階段を下りると、そこに乾燥床《ドライエリア》があって、そこから地下室の下足に、入るようになっている。その入口には昼でもガスが灯っている。そのガスの灯を潜るようにして入ると、そこに薄暗いしかも広闊な下足があった。譲吉はそこに働いている二人の下足番を知っていた。ことに譲吉の頭にはっきりと残っているのは、大男の方であった。六尺に近い大男で、眉毛の太い一癖あるような面構えであったが、もう六十に手が届いていたろう。もう一人の方は、頭のてかてか禿げた小男であった。
二人は恐ろしく無口であった。下足を預ける閲覧者に対しても、ほとんど口を利かなかった。職務の上でもほとんど口を利かなかった。劇場や、寄席、公会場の下足番などが客の脱ぎ放した下駄を、取り上げて預かるようになっているのと違って、ここでは閲覧者自身に下駄を取り上げさせた。またそうしなければならぬような設備になっていた。もし初めての入館者などが下駄を脱いだままぼんやりと立っている場合などに、この大男の爺は、顎でその脱いだ下駄を指し示した。二人はいかなる場合にも、たいていは口を利かなかった。二人の間でも、ほとんど言葉を交わさなかった。深い海の底にいる魚が、だんだんその視力を無くすように、こうした暗い地下室に、この、人の下駄をいじるという賤役に長い間従っているために、いつの間にか嫌人的《ミザンスロピック》になり、口を利くのが嫌になっているようであった。
二人はまた極端に利己的であるように、譲吉には思われた。二人は、入場者を一人|隔《お》きに引き受けているようであった。従って、大男の順番に当っている時に、入場者が小男の方に下駄を差し出すと、彼はそしらぬ顔をして、大男の方を顎で指し示した。小男の順番に当っている時、大男の方へ下駄を差し出した場合も、やっぱりそうであった。彼らは、下足の仕事を正確に二等分して、各自の配分のほかは、少しでも他人《ひと》の仕事をすることを拒んだ。入場者の場合は、それでもあまり大した不都合も起らなかったが、退場者の場合に、大男の受札の者が、五、六人もどやどやと続けて出て、大男が目の回るように立ち回っている時などでも、小男は澄まし返っていて、小さい火鉢にしがみつくようにして、悠然と腰を下していた。が
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