彫刻手記」と原稿紙と弁当とを、一緒に包んだ風呂敷を提げて、日比谷の図書館へ行ったが、図書館へ行って、仕事に取りかかる前の一休みにと、その日の新聞を読んでいたときに、ふと自分が提げてきたはずの風呂敷包が無いのに気がついた。彼は、おどろいて身のまわりを探し回った。が、彼の座席にも新聞閲覧室のどこにも見当らなかった。よく気を落着けて考えてみると、電車から降りるときに、もうあの包を持っていなかったのに気がついた。電車に乗る時に買った新聞を読む時に風呂敷包が邪魔になったので、自分の背と車台の羽目板の間に置いたことに気がついた。内幸町であわてて降りた時に、すっかり忘れてしまったのだと思った。
彼は、その場合にそれほど大切な品物をぼんやり忘れてしまう自分の腑甲斐《ふがい》なさがしみじみと情なかった。そんなに、ぼんやりとしていて大切な品物を容易に忘れてしまうようでは、俺は激しい世の中に立っては、とても存在していかれない人間ではあるまいかとさえ思われた。
彼は茫然とした淋しい情ない心持で、まず三田の車庫へ行ってみた。が、そこにいた監督は「巣鴨の電車ならば、春日町の車庫か、巣鴨の車庫かへ、車掌が届けているでしょう。そんな風呂敷包なら誰も持って行かないでしょう」といった。
彼は、監督の言葉で、やっと安心して、すぐ引っ返して春日町へ行った。三田から春日町までの、あの長い丁場を、彼はどんなにいらいらした心持で乗ったことだろう。が、春日町へ着いてみると「希臘彫刻手記」は、そこへも来ていなかった。
「ああきっと、本郷回りの電車でしょう。それだと、巣鴨の車庫へ届けたのでしょう」と、そこの監督が、彼の希望を繋いでくれた。が、巣鴨まで行ってみると、そこにもやっぱり「希臘彫刻手記」は来ていなかった。
「見つけた車掌が持ってきたんでしょうが、出発を急いだので、ここへは届けずにまた持って行ったんでしょう。それだと、もう一度三田の車庫へ行ってみたらどうです」と、そこの監督が、また彼の消えかかった希望を繋いでくれた。彼は、また巣鴨から三田までの長い線路を――東京のほとんど端から端を、頼りない不快で乗った。が、三田の車庫にもやっぱり彼の風呂敷包は見出されなかった。
「電気局へ明日あたり行ってごらんなさい。電車内へ遺失したものは、一度は必ずあちらへ集まりますから」と前《ぜん》のと違った車掌が、また彼に一縷の望みを伝えてくれた。
誰かに持って行かれたのだという疑いが、だんだん明らかな形を取り出した。そう思うと、自分の横に座っていた印半纏《しるしばんてん》の男が浚《さら》って行ったのかも知れないと思った。が、あの男が家へ帰って「希臘彫刻手記」と原稿紙と弁当とを見|出《いだ》して、一体それを何にするであろうかと思った。俺に、こんなに迷惑をかけながら、向うでは少しも得をしない、罪悪の中でもこうした罪悪が、結果的にはいちばん性質の悪いやつかも知れないと、譲吉は思った。
本屋から貸してくれた原本を無くしたこと、それは少しの義理を欠けば済むことだが、自分の金儲けの希望を、それほど些細に、手軽にふいにしてしまったことが、彼には堪らなく不快であった。が、まだまるきり失望するには当らない。明日電気局へ行けば、都合よく届け出されてあるかも知れないと思った。
が、翌日電気局へ行ってみたが、やっぱり無かった。念のために、警視庁の拾得係へ行ってみたが、やっぱり無かった。もう盗られたのに違いなかった。困っている俺にとっては、あんなに大切のものを、ほんの出来心に盗るやつがあるかと思うと、譲吉は何となく腹立たしかった。
が、丸善にでもあれば、そう失望するには当らない。五円か六円かの金を、どうにか都合して買えばいいのだと思った。彼は、そう思いつくと、その足で丸善へ行ってみたが、やっぱり徒労であった。
「その本なら、去年あたり二、三部来ましたが、とっくに売り切れてしまいました。御注文なら、取り寄せます」と、いったが、その頃は戦争の影響で、英国から本を取り寄せるには、少なくとも三、四カ月、長ければ半年もの時間がかかった。そうした余裕がこの場合にあるわけはなかった。
彼は丸善を出てから、また新しい希望を見出した。
「ああもしかしたら、古本屋にあるかも知れない」
彼は、すぐ神田へ行った。そして、多くの古本屋をほとんど軒並に探してみた。が、あの金色《こんじき》の唐草模様はどこにも見出されなかった。本郷も同じことだった。彼は、足と目とをさんざんに疲らせて、その日の捜索をあきらめて、三田行の電車に乗った。また彼の頭には新しい希望が湧いた。
「ああ図書館にあるかも知れない」
こんなに考えつきやすいことを、今まで考えつかなかった自分の迂遠さが、少しばからしくなった。彼は電車が内幸町へ来ると、急いで飛び降りて、
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング