、大男の方も、小男の手伝いをせぬことを、当然として恨みがましい顔もしなかった。
 譲吉は、その頃よく彼らの生活を考えてみた。同じ下足番であっても、劇場の下足番や寄席の下足番とは違って、華やかなところが少しもなかった。その上に彼等の社会上の位置を具体化したように、いつも暗い地下室で仕事をしている。下足番という職業が持っている本来の屈辱の上に、まだ暗い地下室で一日中|蠢《うごめ》いている。勤務時間がどういう風であったかは知らないが、譲吉が夜遅く帰る時でも、やっぱり同じく彼らが残っていたように思う。来る年も来る年も、来る月も来る月も、毎日毎日、他人《ひと》の下駄をいじるという、単調な生活を繰り返していったならば、どんな人間でもあの二人の爺のように、意地悪に無口に利己的になるのは当然なことだと思った。いつまであんな仕事をしているのだろう。恐らく死ぬまで続くに違いない。おそらく彼らが死んでも、入場者の二、三人が、
「この頃あの下足番の顔が見えないな」と、軽く訝しげに思うにとどまるだろう。先の短い年でありながら、残り少ない月日を、一日一日ああした土の牢で暮さねばならぬ彼らに、譲吉は心から同情した。
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図書館の下足の爺何時までか
  下駄をいじりて世を終るらん
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 これは、譲吉がいつだったか、ノートの端にかきつけた歌だった。もとより拙《つたな》かった。が、自分の心持、下足番の爺に対するあの同情的な心持だけは、出ているように思っていた。

 あの爺も相変らずいるに違いないと思った。まだ俺の顔も、見忘れてはいまいと思った。高等学校時代に絶えず通っていた上に、譲吉は彼らと一度いさかいをしたことがあった。それは、何でも高等学校の二年の時だったろう。
 彼は、その日何でも非常に汚い尻切れの草履をはいていた。その頃、彼は下駄などはほとんど買ったことがなく、たいていは同室者の下駄をはき回っていたのだったが、その日は日曜か何かで、皆が外出したので、はくべき下駄がなかったのであろう。彼が、いつもの通り、その汚い草履を手に取って、大男の方へ差し出すと、彼はそれを受け取ってすぐ自分の足元に置いたまま、しばらく待っても下足札をくれようとしなかった。
「どうしたんだ? 札をくれないか」と、譲吉は少しむっとしたので、荒っぽくいった。
「いや分かっています」と、大男はいかにも飲み込んだように、首を下げて見せた。
「君の方で分かっていようがいまいが、札をくれるのが規則だろう」
「いや間違えやしません。あなたの顔は知っています」
「知っていようがいまいが問題じゃない。札をくれたまえ。規則だろう」
「いくら規則でも、あんまりひどい草履ですね」と、彼は煙管を、火鉢の縁にやけに叩いた。
「人をばかにするな。何だと思うんだ。いくら汚くても履物は履物だぜ」譲吉は本当に憤慨していった。
「あなたの帽子が、どこの学校の帽子かぐらいは知っている。が、何も札をあげなくたって、間違わないというんだから、いいでしょう」と、爺はまだ頑強に抗弁した。譲吉は、自分の方に、十二分の理由があるのを信じたが、大男の足のすぐそばに置かれている自分の草履を見ると、どうもその理由を正当に主張する勇気までが砕けがちであった。下足に供えてある上草履のどれよりも、貧弱だった。先方から借りる上草履よりも、わるい草履を預けながら、下足札を要求する権利は、本当からいえば存在しないものかも知れなかった。
 その時の喧嘩の結末が、どう着いたか、譲吉はもう忘れている。自分の方が勝って下足札を貰ったようにも思うし、自分の方が負けてとうとう下足札を貰えなかったようにも思える。
 が、とにかくあのこと以来、あの大男の爺は自分の顔を、はっきりと覚えているに違いないと彼は思った。むろん、譲吉はそうした喧嘩をしたために、あの男に対する同情を、少しも無くしはしなかった。ああした暗い生き甲斐のない生活をあわれむ心は、少しも変っていなかった。
 彼がどんなに窮迫しているときでも、図書館へ行って、彼らが昔ながらにあの暗い地下室で蠢いているのを見ると、俺の生活がこの先どんなに逼迫しても、あすこまで行くのにはまだ間があるというような、妙な慰めを感ずると同時に、生涯日の目も見ずに、あの地下室で一生を送らねばならぬ彼らを、悼ましく思わずにはおられなかった。

 あの二人は、やっぱりいるに違いない。火鉢にぶつりともいわずに、くすんだ顔をして向い合っているに違いない。あの生活から脱却する機会は死ぬまで彼らには来ないのだと譲吉は思った。あの図書館へ来る幾百幾千という青年が、多少の落伍者はあるとして、それぞれ目的を達して、世の中へ打って出るにもかかわらず、あの爺は永久に下足番をしている。あの暗い地下室から、永久に這い出さ
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