れずにいる。そう思うと、譲吉は自分の心がだんだん暗くなっていった。二年前までは、ニコニコ絣を着て、穴のあいたセルの袴を着け、ニッケルの弁当箱を包んで毎日のように通っていた自分が、今では高貴織の揃いか何かを着て、この頃新調したラクダの外套を着て、金縁の眼鏡をかけて、一個の紳士といったようなものになって下足を預ける。自分の顔を知っているかも知れないあの大男は、一体どんな気持ちで自分の下駄を預かるだろう。あの尻切れ草履を預けて、下足札を貰えなかった自分と、今の自分とは夢のようにかけはなれている。あの草履の代りに、柾目の正しく通った下駄を預けることができるが、預ける人はやっぱり同じ大男の爺だ。そう思うと、譲吉はあの男に、心からすまないように思われた。どうか、自分を忘れてしまってくれ、自分がすまなく思っているような気持が、先方の胸に起らないでくれと譲吉は願った。
 そんなことを思いながら、いつの間にか、美術学校に添うて、図書館の白い建物の前に来た。左手に婦人閲覧室のできているのが目新しいだけで、門の石柱も玄関の様子も、閲覧券売場の様子も少しも変っていなかった。彼は閲覧券売場の窓口に近づいて、十銭札を出しながら、
「特別一枚!」と、いった。すると、思いがけなく、
「やあ、長い間、来ませんでしたね」と、中から挨拶した。譲吉はおどろいて、相手を凝視した。それはまぎれもなくあの爺だった。
「ああ、君か!」と、譲吉は少しあわてて頓狂な声を出した。向うはその太い眉をちょっと微笑するような形に動かしたが、何もいわずに青い切符と、五銭白銅とを出した。
 譲吉は、何ともいえない嬉しい心持がしながら、下足の方へと下った。死ぬまで、下足をいじっていなければならないと思ったあの男が、立派に出世している。それは、判任官が高等官になり勅任官になるよりも、もっと仕甲斐《しがい》のある出世かも知れなかった。獣か何かのように、年百年中薄闇に蠢いているのとは違って、蒲団の上に座り込んで、小奇麗な切符を扱っていればいい。月給の昇額はほんのわずかでも、あの男にとっては、どれほど嬉しいか分からない。あんなに無愛想であった男が、向うから声をかけたことを考えても、あの境遇に十分満足しているに違いないと思った。人生のどんな隅にも、どんなつまらなそうな境遇にも、やっぱり望みはあるのだ。そう思うと、譲吉は世の中というものが、今まで考えていたほど暗い陰惨なところではないように思われた。彼はいつもよりも、晴々とした心持になっている自分を見出した。

 が、それにしても、もう一人の禿頭の小男はどうしたろうと思って注意して見ると、その男もやっぱり下足にはいなかった。むろん、図書館の中でなくてもいいが、あの男も世の中のどこかで、あの男相当の出世をしていてくれればいいと譲吉は思った。



底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
   1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:鈴木伸吾
1999年3月8日公開
2005年10月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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