ろ》にまだほかの沢地《たくち》があるがね、そこにやまだ嫁《かたず》かない雁《がん》の娘《むすめ》がいるから、君《きみ》もお嫁《よめ》さんを貰《もら》うといいや。君《きみ》は見《み》っともないけど、運《うん》はいいかもしれないよ。」
 そんなお喋《しゃべ》りをしていますと、突然《とつぜん》空中《くうちゅう》でポンポンと音《おと》がして、二|羽《わ》の雁《がん》は傷《きず》ついて水草《みずくさ》の間《あいだ》に落《お》ちて死《し》に、あたりの水《みず》は血《ち》で赤《あか》く染《そま》りました。
 ポンポン、その音《おと》は[#「その音は」は底本では「その者は」]遠《とお》くで涯《はて》しなくこだまして、たくさんの雁《がん》の群《むれ》は一《いっ》せいに蒲《がま》の中《なか》から飛《と》び立《た》ちました。音《おと》はなおも四方八方《しほうはっぽう》から絶《た》え間《ま》なしに響《ひび》いて来《き》ます。狩人《かりうど》がこの沢地《たくち》をとり囲《かこ》んだのです。中《なか》には木《き》の枝《えだ》に腰《こし》かけて、上《うえ》から水草《みずくさ》を覗《のぞ》くのもありました。猟銃《りょうじゅう》から出《で》る青《あお》い煙《けむり》は、暗《くらい》い木《き》の上《うえ》を雲《くも》の様《よう》に立《た》ちのぼりました。そしてそれが水上《すいじょう》を渡《わた》って向《むこ》うへ消《き》えたと思《おも》うと、幾匹《いくひき》かの猟犬《りょうけん》が水草《みずくさ》の中に跳《と》び込《こ》んで来《き》て、草《くさ》を踏《ふ》み折《お》り踏《ふ》み折《お》り進《すす》んで行《い》きました。可哀《かわい》そうな子家鴨《こあひる》がどれだけびっくりしたか! 彼《かれ》が羽《はね》の下《した》に頭《あたま》を隠《かく》そうとした時《とき》、一|匹《ぴき》の大《おお》きな、怖《おそ》ろしい犬《いぬ》がすぐ傍《そば》を通《とお》りました。その顎《あご》を大《おお》きく開《ひら》き、舌《した》をだらりと出《だ》し、目《め》はきらきら光《ひか》らせているのです。そして鋭《するど》い歯《は》をむき出《だ》しながら子家鴨《こあひる》のそばに鼻《はな》を突《つ》っ込《こ》んでみた揚句《あげく》、それでも彼《かれ》には触《さわ》らずにどぶんと水《みず》の中《なか》に跳《と》び込《こ》んでしまいました。
「やれやれ。」
と、子家鴨《こあひる》は吐息《といき》をついて、
「僕《ぼく》は見《み》っともなくて全《まった》く有難《ありがた》い事《こと》だった。犬《いぬ》さえ噛《か》みつかないんだからねえ。」
と、思《おも》いました。そしてまだじっとしていますと、猟《りょう》はなおもその頭《あたま》の上《うえ》ではげしく続《つづ》いて、銃《じゅう》の音《おと》が水草《みずくさ》を通《とお》して響《ひび》きわたるのでした。あたりがすっかり静《しず》まりきったのは、もうその日《ひ》もだいぶん晩《おそ》くなってからでしたが、そうなってもまだ哀《あわ》れな子家鴨《こあひる》は動《うご》こうとしませんでした。何時間《なんじかん》かじっと坐《すわ》って様子《ようす》を見《み》ていましたが、それからあたりを丁寧《ていねい》にもう一|遍《ぺん》見廻《みまわ》した後《のち》やっと立《た》ち上《あが》って、今度《こんど》は非常《ひじょう》な速《はや》さで逃《に》げ出《だ》しました。畑《はたけ》を越《こ》え、牧場《ぼくじょう》を越《こ》えて走《はし》って行《い》くうち、あたりは暴風雨《あらし》になって来《き》て、子家鴨《こあひる》の力《ちから》では、凌《しの》いで行《い》けそうもない様子《ようす》になりました。やがて日暮《ひぐ》れ方《がた》彼《かれ》は見《み》すぼらしい小屋《こや》の前《まえ》に来《き》ましたが、それは今《いま》にも倒《たお》れそうで、ただ、どっち側《がわ》に倒《たお》れようかと迷《まよ》っているためにばかりまだ倒《たお》れずに立《た》っている様《よう》な家《いえ》でした。あらしはますますつのる一方《いっぽう》で、子家鴨《こあひる》にはもう一足《ひとあし》も行《い》けそうもなくなりました。そこで彼《かれ》は小屋《こや》の前《まえ》に坐《すわ》りましたが、見《み》ると、戸《と》の蝶番《ちょうつがい》が一《ひと》つなくなっていて、そのために戸《と》がきっちり閉《しま》っていません。下《した》の方《ほう》でちょうど子家鴨《こあひる》がやっと身《み》を滑《すべ》り込《こ》ませられるくらい透《す》いでいるので、子家鴨《こあひる》は静《しず》かにそこからしのび入り、その晩《ばん》はそこで暴風雨《あらし》を避《さ》ける事《こと》にしました。
 この小屋《こや》には、一人《ひとり》の女《
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