小田原陣
菊池寛
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《》:ルビ
(例)総《すべ》て
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(例)千成|瓢箪《びょうたん》
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(例)とんとろ/\
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関東の北条
天正十五年七月、九州遠征から帰って来た秀吉にとって、日本国中その勢いの及ばないのは唯関東の北条氏あるだけだ。尤も奥羽地方にも其の経略の手は延びないけれど、北条氏の向背が一度決すれば、他は問題ではない。箱根山を千成|瓢箪《びょうたん》の馬印が越せば、総《すべ》て解決されるのである。
聚楽第《じゅらくだい》行幸で、天下の群雄を膝下《しっか》に叩頭《こうとう》させて気をよくして居た時でも、秀吉の頭を去らなかったのは此の関東経営であろう。だから、此のお目出度が終ると直ぐ、天正十六年五月に北条氏に向って入朝を促して居る。
一体関東に於ける北条氏の地位は、伊勢新九郎(早雲)以来、氏綱、氏康、氏政と連綿たる大老舗《おおしにせ》の格だ。これを除けば、東日本に於て目ぼしいものは米沢城に在る独眼竜、伊達政宗位だけだ。北条氏は、箱根の天嶮で、上方方面からの勢力をぴったりと抑えているのと、早雲以来民政に力を注いだ結果、此の身代を築き上げたのである。
併し流石《さすが》の名家も、氏政の代になって漸《ようや》く衰退の色が見える。家来に偉いのが出ないのにも依るが氏政自身無能である。お坊っちゃんで、大勢を洞察する頭のないお山の大将だからである。
或る時、若年の氏政が、戦場に在った。恰《あだか》も四月末だったので、百姓が麦を刈り取って馬に積み、前を通った。すると氏政は側近の者に、あれで直ぐ麦飯を作って持って来いと命じた。ところが、此の時は武田信玄と両旗であったと見え、同席している信玄が、流石に氏政は大身である、百姓の事は知らないのも無理はないが、麦は乾かしたり搗《つ》いたりしなければ、飯には炊《た》けないと云って説明した。
信玄のことだから、恐らく腹の中では嘲《わら》って居たことであろう。
氏政の頭は、こんな調子である。それだけに名君の誉ある父の氏康の心痛は思いやられる。氏康は川越の夜戦に十倍の敵を破り勇名を轟《とどろ》かした名将で、向う創《きず》のことを氏康創と云われた位の男である。
一日、父子で食事をしたところ、氏政が一杯の飯に二度汁をかけて食った。氏康これを見て落涙し北条家も自分一代で終ると言った。食事は毎日のことだから、貴賤に限らずその心得がなくてはならない。初めから足りない様な汁のかけ方をするような不心得では、軍勢の見積りなど出来るか。それでは戦国の世に国を保つことは思いも寄らぬと言って長歎したと云う。昔の食事は、汁椀などはなく、大きな鉢に盛った汁を各自の飯椀にかけるのだった。先日、京都の普茶料理を喰べながら、この逸話を思い出した。普茶料理に昔のおもかげがある。食事の仕方で、人物批判をされたのは、平親王《へいしんのう》と氏政の二人である。
子を見ること、父に如《し》かず氏康の予言は適中して、凡庸無策の氏政は遂に大勢を誤ったのである。即ち秀吉の実力を見そこなったのである。秀吉に上洛を迫られた時、忙しくて京都まで行って居られぬと断った。尤も氏政にしてみれば徳川家康がその親戚であるから、まさかの時は何とかして呉れる位には楽観して居たのだろう。
若《も》し此の時素直に上洛して、秀吉の機嫌をとっておけば、二百八十万石を棒に振らなくても済んだのである。秀吉にとって北条氏は全滅させなければならぬ程の宿怨があるわけでないからだ。
もう天下を八分まで握っていた秀吉は一度顔を潰《つぶ》されたとなると、決して容赦はしない。家康に調停を乞い、一族の北条氏則を上洛させて弁解に努めたけれど、時機は既に遅い。沼田事件に於ける北条氏の不信を鳴らして、天正十七年十一月二十四日には痛烈な手切文書を発して居るのである。沼田事件と云うのは、氏政上洛の条件として上州沼田を真田から割《さ》いてくれ、と云った。秀吉が真田に諭《さと》して、沼田を譲らしめた。だが、真田|視秀《よしひで》の墳墓のある名胡桃《なくるみ》だけは除外した。しかるに、北条氏の将が名胡桃まで略取してしまった。これが、開戦の直接原因である。
「然る処、氏直天道の正理に背《そむ》き、帝都に対して奸謀を企つ。何《いずくん》ぞ天罰を蒙らざらんや。古諺に曰く、巧詐は拙誠に如かずと。所詮普天の下勅命に逆ふ輩《ともがら》は、早く誅伐《ちゅうばつ》を加へざるべからず云々」
実に秀吉一流の大見得である。勅命を奉じて天下を席捲せんとする其の面目が躍如として居る。
この氏直は氏政の子であって此の時の責任者だ。氏直を入れて、後《のち》北条は五代になるのだ。
此の手切文書を受けとった氏政は、是を地に擲《なげう》って弟の氏照に向い、一片の文書で天下の北条を恫喝《どうかつ》するとは片腹痛い、兵力で来るなら平の維盛の二の舞で、秀吉など水鳥の羽音を聞いただけで潰走《かいそう》するだろうと豪語したと云う。上方勢は、柔弱だと云う肚が、どっかにあったのであろう。
武田信玄でも上杉謙信でも、早くから北条氏には随分手を焼いて居る。つまり箱根と云う天然の要害に妨げられたからである。謙信など長駆して来て、小田原を囲んだが、懸軍百里の遠征では、糧続かず人和せず、どうにも出来なかった。ただ城濠の傍近く馬から下り、城兵に鉄砲の一斉射撃を受けながら、悠々としてお茶を三杯飲んだと云うような豪快な逸話を残している丈だ。
併し秀吉は、信玄や謙信の様に単なる地方の豪傑ではない。既に天下の秀吉だ。箱根の麓あたりで独り思い上って居る北条は、こんなところで取返しのつかない大誤算を犯したと云うべきだ。
秀吉の出陣
天正十八年二月七日、先鋒として蒲生|氏郷《うじさと》が伊勢松坂城を出発した。続いて徳川家康、織田信雄は東海道から、上杉景勝、前田利家は東山道から潮《うしお》の様に小田原指して押しよせた。「先陣既に黄瀬川、沼津に著《つき》ぬれば、後陣の人は、美濃、尾張にみちみちたる」とあるくらいだから、正に天下の大軍である。その上、水軍の諸将、即ち長曾我部元親、加藤|嘉明《よしあき》、九鬼嘉隆等も各々その精鋭をすぐって、遠州今切港や清水港に投錨して居るのだから、小田原城は丁度三面包囲を受ける形勢にある。
三月|朔日《ついたち》、いよいよ秀吉の本隊も京都を出発した。随分大げさな出立をしたものとみえ、『多聞院日記』に「東国御陣立とて、万方震動なり」とある。
作り髭を付け、唐冠《からかんむり》の甲《かぶと》を著け、金札緋威《きんざねひおどし》の鎧に朱塗の重籐《しげとう》の弓を握り、威儀堂々と馬に乗って洛中を打ち立った。それに続く近習や伽衆《とぎしゅう》、馬廻など、皆善美を尽した甲冑を着て伊達を競ったから、見物の庶民は三条河原から大津辺迄桟敷を掛けて見送ったと云う。
こんな一種の稚気にも、如何にも秀吉らしい豪快さがあって、鎖国時代以後のいじけた将軍の行列なんかには到底見られぬ図であろう。
その上途中に展《ひら》ける東海道の風光が、生れて始めて見るだけにひどく心を愉《たの》しませたらしい。清見寺から三保の松原を眺めて、
[#天から3字下げ]諸人《もろひと》の立帰りつゝ見るとてや、関に向へる三保の松原
と詠んだ。其の他沢山に歌を作って居るが、其の先鋒諸隊に対する、厳重な訓令は怠らなかった。殊に家康の領内を行進するのであるから、こんな点抜け目のある男ではない。斯《か》くて二十七日には、家康や信雄に迎えられて沼津城に入って居る。
一方北条方では、此の間どうして居たか。
天正十八年正月二十日に、氏政、氏直父子は一門宿将を小田原に招集して、評議をやって居る。初めは三島から黄瀬川附近まで進撃し、遠征の敵軍を邀撃《ようげき》する策戦に衆議一決しようとした。此の時松田|憲秀《のりひで》独り不可なりと反対し、箱根の天嶮に恃《たの》み、小田原及関東の諸城を固めて持久戦をする事を主張した。此は元来北条氏の伝統的作戦であって、遂に軍議は籠城説に決定した。
そこで直ちに箱根方面の防備は固められた。先ず要鎮の一である韮山《にらやま》城は、氏政の弟、氏則が守り、山中城には城将松田康長の外に、朝倉|景澄《かげずみ》等の腹心の諸将を派遣して居る。朝倉景澄、この時秘かに心友に向い、山中城は昨年以来相当に修繕はしてあるが、秀吉の大軍にはとても長く敵することは出来ぬ、今我等宿将を此処に差し向けるのは、爪牙《そうが》の臣を敵の餌食にする積りだろうと云って歎じたと云う。重臣ですらこれである。一般の士気は察すべきだ。
三月二十八日、秀吉は沼津を発して三島を過ぎ、長久保城に入って家康と軍議を凝らして居る。小田原攻撃の前哨戦は、先ず誰が見ても此の山中、韮山二城の奪取でなければならない。
山中城に対する襲撃は、三月二十九日の早朝に始まって居る。寄手は秀次を先鋒にして堀尾吉晴等の猛将が息をもつがせずに急襲した。秀吉は此の時、遙か後の山上に立ち、あれを見よ、あれを見よとばかりに指さし、臀《しり》を引捲《ひきまく》り小躍りしたと云うから、相当に目覚しい攻撃振りだと思われる。もっとも臀をまくるのは秀吉の癖である。一挙にして揉《も》みつぶしてしまった、秀吉の得意思うべきである。此の日、下野黒羽城主大関高増に手紙をやり、
「今日箱根峠に打ち登り候。小田原表行き、急度《きっと》申付く可候、是又《これまた》早速相果す可く候」
と軒昂の意気を示して居る。今、十国峠あたりから見ると、山中は湯河原なんかと丁度反対側の小集落だ。併しとに角、箱根山塊の一端だから「今日箱根峠に打ち登り候」と子供の様に喜んで居るのだ。又それだけに、箱根山脈が如何に当時の武将の間に、戦術上の要害として深刻に考えられて居たかが分ると思う。
一方韮山城攻囲の主将は織田信雄である。併し城主の北条|氏規《うじのり》は、北条家随一の名将として知られて居る程の人物だから、四万四千の寄手も相当に苦戦である。流石の福島正則みたいな向う見ずの大将も、一時、退却したくらいだ。実際に氏規の韮山城の好防は、小田原役の花と謳《うた》われたものである。
韮山城が容易に陥ちないと定《きま》ると、秀吉は一部の兵を以て持久攻囲の策をとり、袋の鼠にして置いて、全軍を以て愈々小田原攻撃の本舞台に乗り出した。
小田原包囲
四月五日、秀吉は本営を箱根から、湯本早雲寺に移した。山の中とはことかわり、溌溂《はつらつ》たる陽春の気は野に丘に満ち、快い微風は戦士等の窶《やつ》れた頬を撫でて居る。ともすれば懶《ものう》い駘蕩《たいとう》たる春霞の中にあって、十万七千の包囲軍はひしひしと犇《ひしめ》き合って小田原城に迫って居る。
酒匂《さかわ》川を渡って城東には徳川家康の兵三万人、城北荻窪村には羽柴秀次、秀勝の二万人、城西水之尾附近には宇喜多秀家の八千人、城南湯本口には池田輝政、堀秀政等の大軍が石垣山から早川村に陣を布《し》いて居る。その上、相模湾には水軍の諸将が警備の任につき、今や小田原城は完全な四面包囲を受けて居る。此の時北条方にとって憎む可き裏切者が出た。即ち宿老松田憲秀であって、密使を早雲寺の秀吉に発し、小田原城の西南、笠懸山に本営を進むべきことを説いて居る。そこで秀吉が実地検分してみると、小田原城を真下に見下して、本陣としては実に絶好の地だ。よいと思ったら何事にも機敏な秀吉のことだから、直ちに陣営の塀や櫓《やぐら》を白紙で張り立て、前面の杉林を切払って模擬城を築いた。一夜明けて小田原城から見ると、石坦を築き、白壁をつけた堂々たる敵営が聳《そび》えて居るのだから、随分面喰っただろうと思う。
「凡人の態《さま》ならず、秀吉は天魔の化身にや」
と驚いて居る時、秀吉は既に
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