立てこもる場所もなかるべければ、今よりは我に仕えよ」と氏郷の与力として、三千石と二千石を与えた。
秀吉が、後世まで人気のあるのは、こう云う所にあるのだろう。
この陣中、奥州の政宗が初て御機嫌伺いに来たとき、大軍の手配を見せてやるとて、政宗に自分の佩刀《はいとう》を持たせて、後に従えさせてただ二人で小高き所に上り、いろいろ説明をきかせたのは、有名な話しである。政宗を「うごく虫らども」とも思わざる容子である、と書いてあるが、秀吉得意の腹の芸である。政宗も田舎役者ではあるが相当なもので、その後も謀反《むほん》の嫌疑をかけられたとき、いつも秀吉との腹芸を、相当にやっている。秀次事件のときなど、政宗が秀次と仲がよすぎたと云うので訊問されたときなど、
「太閣がお目利の違《たが》われたる関白殿を、政宗が片眼で見損うのは当然である」と、喝破《かっぱ》して、危機を逃れている。だから秀吉だって、政宗を虫けらとは、最初から思っていないだろう。
とにかく、小田原陣は、烈しい戦争はなかったにしろ、今に「小田原評定」なと云う言葉が残るのだから、秀吉にとっても相当苦心の長陣であり、日本中の関心の的であったのであろう。
底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷
※底本は、物を数える際に用いる「ヶ」(区点番号5−86)(「三四ヶ所」)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年11月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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