機嫌をとっておけば、二百八十万石を棒に振らなくても済んだのである。秀吉にとって北条氏は全滅させなければならぬ程の宿怨があるわけでないからだ。
 もう天下を八分まで握っていた秀吉は一度顔を潰《つぶ》されたとなると、決して容赦はしない。家康に調停を乞い、一族の北条氏則を上洛させて弁解に努めたけれど、時機は既に遅い。沼田事件に於ける北条氏の不信を鳴らして、天正十七年十一月二十四日には痛烈な手切文書を発して居るのである。沼田事件と云うのは、氏政上洛の条件として上州沼田を真田から割《さ》いてくれ、と云った。秀吉が真田に諭《さと》して、沼田を譲らしめた。だが、真田|視秀《よしひで》の墳墓のある名胡桃《なくるみ》だけは除外した。しかるに、北条氏の将が名胡桃まで略取してしまった。これが、開戦の直接原因である。
「然る処、氏直天道の正理に背《そむ》き、帝都に対して奸謀を企つ。何《いずくん》ぞ天罰を蒙らざらんや。古諺に曰く、巧詐は拙誠に如かずと。所詮普天の下勅命に逆ふ輩《ともがら》は、早く誅伐《ちゅうばつ》を加へざるべからず云々」
 実に秀吉一流の大見得である。勅命を奉じて天下を席捲せんとする其の面目が躍
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