立てこもる場所もなかるべければ、今よりは我に仕えよ」と氏郷の与力として、三千石と二千石を与えた。
 秀吉が、後世まで人気のあるのは、こう云う所にあるのだろう。
 この陣中、奥州の政宗が初て御機嫌伺いに来たとき、大軍の手配を見せてやるとて、政宗に自分の佩刀《はいとう》を持たせて、後に従えさせてただ二人で小高き所に上り、いろいろ説明をきかせたのは、有名な話しである。政宗を「うごく虫らども」とも思わざる容子である、と書いてあるが、秀吉得意の腹の芸である。政宗も田舎役者ではあるが相当なもので、その後も謀反《むほん》の嫌疑をかけられたとき、いつも秀吉との腹芸を、相当にやっている。秀次事件のときなど、政宗が秀次と仲がよすぎたと云うので訊問されたときなど、
「太閣がお目利の違《たが》われたる関白殿を、政宗が片眼で見損うのは当然である」と、喝破《かっぱ》して、危機を逃れている。だから秀吉だって、政宗を虫けらとは、最初から思っていないだろう。
 とにかく、小田原陣は、烈しい戦争はなかったにしろ、今に「小田原評定」なと云う言葉が残るのだから、秀吉にとっても相当苦心の長陣であり、日本中の関心の的であったので
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