表行き、急度《きっと》申付く可候、是又《これまた》早速相果す可く候」
 と軒昂の意気を示して居る。今、十国峠あたりから見ると、山中は湯河原なんかと丁度反対側の小集落だ。併しとに角、箱根山塊の一端だから「今日箱根峠に打ち登り候」と子供の様に喜んで居るのだ。又それだけに、箱根山脈が如何に当時の武将の間に、戦術上の要害として深刻に考えられて居たかが分ると思う。
 一方韮山城攻囲の主将は織田信雄である。併し城主の北条|氏規《うじのり》は、北条家随一の名将として知られて居る程の人物だから、四万四千の寄手も相当に苦戦である。流石の福島正則みたいな向う見ずの大将も、一時、退却したくらいだ。実際に氏規の韮山城の好防は、小田原役の花と謳《うた》われたものである。
 韮山城が容易に陥ちないと定《きま》ると、秀吉は一部の兵を以て持久攻囲の策をとり、袋の鼠にして置いて、全軍を以て愈々小田原攻撃の本舞台に乗り出した。

       小田原包囲

 四月五日、秀吉は本営を箱根から、湯本早雲寺に移した。山の中とはことかわり、溌溂《はつらつ》たる陽春の気は野に丘に満ち、快い微風は戦士等の窶《やつ》れた頬を撫でて居る。ともすれば懶《ものう》い駘蕩《たいとう》たる春霞の中にあって、十万七千の包囲軍はひしひしと犇《ひしめ》き合って小田原城に迫って居る。
 酒匂《さかわ》川を渡って城東には徳川家康の兵三万人、城北荻窪村には羽柴秀次、秀勝の二万人、城西水之尾附近には宇喜多秀家の八千人、城南湯本口には池田輝政、堀秀政等の大軍が石垣山から早川村に陣を布《し》いて居る。その上、相模湾には水軍の諸将が警備の任につき、今や小田原城は完全な四面包囲を受けて居る。此の時北条方にとって憎む可き裏切者が出た。即ち宿老松田憲秀であって、密使を早雲寺の秀吉に発し、小田原城の西南、笠懸山に本営を進むべきことを説いて居る。そこで秀吉が実地検分してみると、小田原城を真下に見下して、本陣としては実に絶好の地だ。よいと思ったら何事にも機敏な秀吉のことだから、直ちに陣営の塀や櫓《やぐら》を白紙で張り立て、前面の杉林を切払って模擬城を築いた。一夜明けて小田原城から見ると、石坦を築き、白壁をつけた堂々たる敵営が聳《そび》えて居るのだから、随分面喰っただろうと思う。
「凡人の態《さま》ならず、秀吉は天魔の化身にや」
 と驚いて居る時、秀吉は既に
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