此処に移転して、「啼《なき》たつよ北条山の郭公《ほととぎす》」と口吟《くちずさ》んで、涼しい顔をして居た。
 此れが有名な石垣山の一夜城であって、湯本行のバスの中なんかで、女車掌が必ず声を張り上げて一くさりやる物語りである。
 此の語の真偽はとにかく、戦略上の要点を見付けるのに天才的な秀吉と、錚々《そうそう》たる土木家である増田長盛や、長束《ながつか》正家なんかが共同でやった仕事だから、姑息な小田原城の将士の度肝を抜くことなんか、易々《いい》たるものだったと思う。
 七日、秀吉は総攻撃を命じて居る。全軍一斉に銃射を開始し、喊声《かんせい》を響《とどろ》かし、旗幟《きし》を振って進撃の気勢を示した。水軍も亦船列を整えて鉦《かね》、太鼓を鳴らして陸上に迫らんとした。城中からは応戦の声が挙ったけれど、此の日は何の勝負もなかった。
 秀吉は此の日、北西二方面の攻撃力の不足を看破し、韮山攻囲軍の過半を割いて救援させて居る。欺くして戦線の兵は次第に増大し、海陸の兵数は実に十四万八千人に上った。併し流石に天下の名城だけに、小田原城の宏大さは一寸近寄り難い。
「此城堅固に構へて、広大なること西は富士と小嶺《こみね》山つゞきたり。この山の間には堀をほり、東西へ五十町、南北へ七十町、廻りは五里四方。井楼、矢倉、隙間もなく立置き、持口々々に大将家々の旗をなびかし、馬印、色々様々にあつて、風に翻り粧《よそお》ひ、芳野立田の花紅葉にやたとへん。陣屋は塗籠《ぬりこ》め、小路を割り、人数繁きこと、稲麻|竹葦《ちくい》の如し」
 と『北条五代記』にある。如何にも五代の積威を擁して八州の精鋭を集めただけあって、上方勢が攻めあぐんだのも無理はない。
 九日には長曾我部元親、加藤嘉明等の水軍は大砲を発射して威嚇に努めて居るが、城内は泰然としてビクともして居ないのである。
 そろそろ此の辺から、戦いは持久戦になって来た。秀吉も攻めあぐんだ。小田原評定なんて云う言葉の起った所以である。一寸緊張が緩《ゆる》むと、面白いもので、家康、信雄が北条方へ内通して居ると云う謡言が、陣中にたった。尤も火のない所に煙は立たないもので、小牧山合戦以来未だ釈然たらざる織田信雄なんかが策動して、家康を焚き付けたことは想像出来るのである。だから先に秀吉が駿府城に迎えられた時、率直な秀吉は馬から下るやずかずかと進み、信雄、家康逆心あ
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