如として居る。
この氏直は氏政の子であって此の時の責任者だ。氏直を入れて、後《のち》北条は五代になるのだ。
此の手切文書を受けとった氏政は、是を地に擲《なげう》って弟の氏照に向い、一片の文書で天下の北条を恫喝《どうかつ》するとは片腹痛い、兵力で来るなら平の維盛の二の舞で、秀吉など水鳥の羽音を聞いただけで潰走《かいそう》するだろうと豪語したと云う。上方勢は、柔弱だと云う肚が、どっかにあったのであろう。
武田信玄でも上杉謙信でも、早くから北条氏には随分手を焼いて居る。つまり箱根と云う天然の要害に妨げられたからである。謙信など長駆して来て、小田原を囲んだが、懸軍百里の遠征では、糧続かず人和せず、どうにも出来なかった。ただ城濠の傍近く馬から下り、城兵に鉄砲の一斉射撃を受けながら、悠々としてお茶を三杯飲んだと云うような豪快な逸話を残している丈だ。
併し秀吉は、信玄や謙信の様に単なる地方の豪傑ではない。既に天下の秀吉だ。箱根の麓あたりで独り思い上って居る北条は、こんなところで取返しのつかない大誤算を犯したと云うべきだ。
秀吉の出陣
天正十八年二月七日、先鋒として蒲生|氏郷《うじさと》が伊勢松坂城を出発した。続いて徳川家康、織田信雄は東海道から、上杉景勝、前田利家は東山道から潮《うしお》の様に小田原指して押しよせた。「先陣既に黄瀬川、沼津に著《つき》ぬれば、後陣の人は、美濃、尾張にみちみちたる」とあるくらいだから、正に天下の大軍である。その上、水軍の諸将、即ち長曾我部元親、加藤|嘉明《よしあき》、九鬼嘉隆等も各々その精鋭をすぐって、遠州今切港や清水港に投錨して居るのだから、小田原城は丁度三面包囲を受ける形勢にある。
三月|朔日《ついたち》、いよいよ秀吉の本隊も京都を出発した。随分大げさな出立をしたものとみえ、『多聞院日記』に「東国御陣立とて、万方震動なり」とある。
作り髭を付け、唐冠《からかんむり》の甲《かぶと》を著け、金札緋威《きんざねひおどし》の鎧に朱塗の重籐《しげとう》の弓を握り、威儀堂々と馬に乗って洛中を打ち立った。それに続く近習や伽衆《とぎしゅう》、馬廻など、皆善美を尽した甲冑を着て伊達を競ったから、見物の庶民は三条河原から大津辺迄桟敷を掛けて見送ったと云う。
こんな一種の稚気にも、如何にも秀吉らしい豪快さがあって、鎖国時代以後のいじけ
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