《とどろ》かした名将で、向う創《きず》のことを氏康創と云われた位の男である。
一日、父子で食事をしたところ、氏政が一杯の飯に二度汁をかけて食った。氏康これを見て落涙し北条家も自分一代で終ると言った。食事は毎日のことだから、貴賤に限らずその心得がなくてはならない。初めから足りない様な汁のかけ方をするような不心得では、軍勢の見積りなど出来るか。それでは戦国の世に国を保つことは思いも寄らぬと言って長歎したと云う。昔の食事は、汁椀などはなく、大きな鉢に盛った汁を各自の飯椀にかけるのだった。先日、京都の普茶料理を喰べながら、この逸話を思い出した。普茶料理に昔のおもかげがある。食事の仕方で、人物批判をされたのは、平親王《へいしんのう》と氏政の二人である。
子を見ること、父に如《し》かず氏康の予言は適中して、凡庸無策の氏政は遂に大勢を誤ったのである。即ち秀吉の実力を見そこなったのである。秀吉に上洛を迫られた時、忙しくて京都まで行って居られぬと断った。尤も氏政にしてみれば徳川家康がその親戚であるから、まさかの時は何とかして呉れる位には楽観して居たのだろう。
若《も》し此の時素直に上洛して、秀吉の機嫌をとっておけば、二百八十万石を棒に振らなくても済んだのである。秀吉にとって北条氏は全滅させなければならぬ程の宿怨があるわけでないからだ。
もう天下を八分まで握っていた秀吉は一度顔を潰《つぶ》されたとなると、決して容赦はしない。家康に調停を乞い、一族の北条氏則を上洛させて弁解に努めたけれど、時機は既に遅い。沼田事件に於ける北条氏の不信を鳴らして、天正十七年十一月二十四日には痛烈な手切文書を発して居るのである。沼田事件と云うのは、氏政上洛の条件として上州沼田を真田から割《さ》いてくれ、と云った。秀吉が真田に諭《さと》して、沼田を譲らしめた。だが、真田|視秀《よしひで》の墳墓のある名胡桃《なくるみ》だけは除外した。しかるに、北条氏の将が名胡桃まで略取してしまった。これが、開戦の直接原因である。
「然る処、氏直天道の正理に背《そむ》き、帝都に対して奸謀を企つ。何《いずくん》ぞ天罰を蒙らざらんや。古諺に曰く、巧詐は拙誠に如かずと。所詮普天の下勅命に逆ふ輩《ともがら》は、早く誅伐《ちゅうばつ》を加へざるべからず云々」
実に秀吉一流の大見得である。勅命を奉じて天下を席捲せんとする其の面目が躍
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