、弟は兄を隔て出けるに因て、父子兄弟の間も睦《むつま》じからず、況《いわん》や其余をや」の乱脈振りとなった。こうなっては戦争も駄目だ。
 六月二十六日、本普請にかかって居た石垣山の陣城が落成した。その結構の壮偉なるは大阪、聚楽に劣り難しと、榊原康政は肥後の加藤清正に手紙で報告して居るが、多少のミソはあるにしても、其の偉観想い見る可しだ。
 秀吉は同夜の十時に、全軍に令して一斉射撃で城中を威嚇して居た。
 遂に七月五日に、氏直は愈々窮して弟氏房を伴って城を出て、家康を介して降服を申し出でた。そこで秀吉は家康と処分法を議し、氏直の死を許し、氏政、氏照等を斬った。
 思うに氏直の独断的降服は軽率であった。尤も家康なんかの斡旋《あっせん》を頼りにして居たのだろうが、家康は其の実見捨ての神だ。北条家の肩をもって余計な口をきき、秀吉の嫌疑を受けるのを極度に戒心して居たからである。
 恐らく一番貧乏|籤《くじ》を引いたのは氏政だろう。首は氏照と一緒に、京都一条の戻橋《もどりばし》で梟《さら》されて居るのである。
 併し此の戦争で一番儲けたのは家康だ。関八州の新領土がそっくり手に入ったからである。尤も東海の旧領と交換だった。
 これより先の一日、秀吉は家康と石垣山から小田原城を俯瞰した。
「家康公の御手を執て、あれ見給へ、北条家の滅亡程有るべからず。気味のよき事にてこそあれ。左あれば、関八州は貴客に進《まい》らすべし」(関八州古戦録)と言って、敵城の方に向い一緒に立小便をした。
 これは有名な「関東の連小便」の由来だと云うが、どうだか。
 これで見ても、秀吉には早くから家康に関八州を与える意図は有ったらしい。
 尤も徳川方の御用歴史家なんか此の移封を以て一種の左遷と見做し、神君を敬遠したるものとして秀吉に毒づいて居る。安祥《あんしょう》以来の三河を離れることは相当につらかったであろう。
 併しそれにしたところで、後で考えてみて、駿府あたりに開府するより、広濶な江戸に清新な気を以て幕府を開いた方が、家康にとってどれ位幸福だったか知れやしないと思う。

       余譚

 しかし、この時秀吉が、北条氏を滅してしまったことは、高等政策として、どうだったかと思う。せめて氏直氏規の二人に、七八十万石をやって、関東に北条家を立てさせた方が家康を制肘《せいちゅう》する役に立ったのではあるまい
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