小田原方でも負けないで、持久の計を立てて居る。
「昼は碁、将棋、双六を打つて遊ぶ所もあり。酒宴遊舞をなすものあり。炉を構へて朋友と数奇に気味を慰もあり。詩歌を吟じ、連歌をなし、音しづかなる所もあり。笛|鼓《つづみ》をうちならし乱舞に興ずる陣所もあり。然《しかれ》ば一生涯を送るとも、かつて退屈の気あるべからず」と『北条五代記』にあるから、此又相当なものである。見たところ此れ位呑気な戦争は、戦国時代を通じて外にあるまい。こうなった以上根気較べの他はない。

       小田原城の陥落

 戦争のやり方も相手に依りけりだ。いかに籠城が北条の十八番《おはこ》でも、のびのびと屈托のない秀吉に対しては一向利き目がない。それどころか夫子《ふうし》自身、此のお家伝来の芸に退屈し始めて来た。
 そこで広沢重信は、城中の士気を振作すべく、精鋭をすぐって、信雄と氏郷の陣を夜襲した。蒲生氏郷自ら長槍を揮って戦い、胸板の下に三四ヶ所|鎗疵《やりきず》を受け、十文字の鎗の柄も五ヶ所迄斬込まれ、有名な鯰尾《なまずお》の兜にも矢二筋を射立てられ乍ら、尚も悪鬼の如く城門に迫って行ったとあるから、兎に角強いものである。小田原陣直後奥州の辺土へ転封され、百万石の知行にあきたらず、たとえ二十万石でも都近くにあらばと、涙を呑んで中原《ちゅうげん》の志を捨てた位の意気は、髣髴《ほうふつ》として覗《うかがわ》れるのである。
 此の頃になると、関東方面に散在して居る諸城は、相次いで陥落し、小田原城は愈々孤立無援の状態にある。
 六月二十二日には、関東の強鎮八王寺城が上杉景勝、前田利家の急襲に逢って潰《つい》えて居る。石田三成の水攻めにあいながらも、よく堅守して居る忍《おし》城の成田氏長の様な勇将もあったが、小田原城の士気は全く沮喪して仕舞った。
 此の年の五月雨《さみだれ》は例年より遙かに長かったらしい。霧を伴い、亦屡々豪雨の降ったことは当時の戦記の到る所に散見して見える。
 十重二十重に囲まれ、その上連日の霖雨《りんう》であるから、いくら遊び事をして居たって、城内の諸士が相当に腐ったのは想像出来る。
 気持ちが滅入って来ると、疑心暗鬼を生じて来る。前には松田憲秀の様なスパイ事件もあるし、機敏な秀吉は此の形勢を見て、盛んに調略、策動をやった。斯くて「小田原城中群疑蜂起し、不和の岐《ちまた》となつて、兄は弟を疑ひ
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