かと思う。尤も秀吉の腹では、北条家を残して置けば、姻威関係のある家康の無二の味方とでもなると思ったのだろうか。九州の島津に寛大でありながら、北条氏に少し苛酷である。尤も、島津は北条ほど、秀吉に面倒をかけていないが、しかし、北条家が関東の大藩として残っていた方が、徳川の勢力が、あんなにも延びなかったのではないかと思われる。秀吉死後など、北条家はどんな行動をしただろうかなどと考えて見ると、なかなか興味が深い。
 氏政、氏照は殺されたが、籠城の士は凡て、生命を助けられた。ただ忌諱に触れていた連中は、捕えられた。
 裏切をした松田憲秀は、二男の左馬介が氏直に、この事を訴えたので、捕えられて、城中に押し籠められていたが、このとき長男の新六郎と共に黒田如水の所へ預けられていた。秀吉、左馬介を憎んで殺せと、如水に命じた。如水承ると云って、左馬介を殺さずして、長男の新六郎を殺してしまった。秀吉怒って、何とて新六郎を殺せしや、左馬介は父子を訴えし憎き奴なれば殺せと云ったのだと怒ると、如水曰く「新六は父と共に譜第の主人に背《そむ》きしものなれば武道に背き、忠孝ともになきものなり。左馬介は、父には背けども、主人には忠なり。左馬介と新六郎と取り違えたりとも損とは申されじ」と、云った。秀吉「ちんば奴《め》が、空とぼけやがって!」と、苦笑してそのままになった。
 また、北条家の使節として、秀吉の所へやって来た事のある板部岡江雪斎も捕えられて、手かせ足かせを入れられて、秀吉の前に引き出された。
 秀吉怒って、「汝先年の約束に背き、主家を滅し快きか」と面罵した。すると、江雪斎自若として「辺土の将、時勢を知らず名胡桃を取りしは、これ北条家の武運尽くる所なりしかれども、天下の勢を引き受け、数ヶ月を支えしは、当家の面目之に過ぎず」と、云い放った。秀吉「汝は、京に上せ磔《はりつけ》にかけんと思いしが、わが面前に壮語して主家を恥しめざるは、愛《う》い奴かな」と云って命を助けて、お側衆にしてくれた。爾後、板部を取ってただ岡江雪斎と云った。秀吉の寛大歎ずべしだ。柴田勝家の甥なる在久間安次とその弟は、勝家滅後大和に在って、秀吉に抗していたが、そこも落されて、小田原に籠り、小田原落城後、武州金沢の称名寺にかくれていたが、秀吉之を呼び出し、「勝家の甥として、我に手向うは殊勝なり。然れども今や天下我に帰したれば、汝達の
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