れに私、疲れていたものですから、決して厚かましく寝こんだわけではないのでございますから。」
セエラはふと親しげに笑って、ベッキイの肩に手をかけました。
「あなた疲れていたのね。眠るのも無理はありませんわ。まだ眼が覚めきらないんでしょう。」
ベッキイはたまげたようにセエラを見返しました。ベッキイは今までこんなやさしい情の籠った声を聞いたことはありませんでした。用をいいつけられたり、叱られたり、耳を打たれたりばかりしているベッキイでした。それなのに、この薔薇色の舞蹈服を着たお嬢さんは、同じ身分の娘ででもあるかのように、ベッキイを見ているのです。そして、ベッキイは疲れるのがあたりまえだ――居眠りするのさえあたりまえだ、というような眼でベッキイを見ているのです。セエラはその細い柔かな手先を、ベッキイの肩にのせています。そんなことをされる気持もベッキイは、まだ味《あじわ》ったことがありませんでした。
「あの、あの、お嬢様。怒ってらっしゃるのじゃアございませんの? 先生達にいいつけたりなさりゃアしません?」
「いいえ、そんなことするものですか。」
汚れた小娘の顔が、おどおどしているのを見ると、セエラは見ていられないほど気の毒になりました。
「だって、あなたも私も、同じ小娘じゃアありませんか。私があなたのように不幸でなく、あなたが私のように幸せでないのは、いわば偶然《アクシデント》よ。」
ベッキイには、セエラのそういう意味がちっとも解りませんでした。ベッキイが『アクシデント』だと思っているのは、人が車に轢《ひ》かれたり、梯子《はしご》から落ちたり、あのいやな病院へ伴れて行かれたりする、そうした災難のことだったのでした。ベッキイの解らないのを察しると、セエラは話題を変えました。
「もう御用すんだの? もうしばらくここにいても大丈夫?」
「ここにですって? お嬢様、あの私が?」
「そこらには誰もいないようよ。だから、ほかの寝室を片付けてしまったのなら、ちょっとぐらいここにいてもいいでしょう? お菓子でも一つ上らない?」
それから十分ほどの間、ベッキイはまるで熱に浮かされたようでした。セエラは戸棚から厚く切ったお菓子を一切《ひときれ》出して、ベッキイにやりました。セエラは、ベッキイがそれをがつがつ食べるのを、うれしそうに見ていました。セエラが心おきなく話しかけるので、ベッキイも、いつか怖れを忘れ、思いきってこんなことまで問うようになりました。
「あの、そのお召ね? ――それ、お嬢様の一番いいお着物?」
「まだこんな舞蹈服《ぶとうふく》はいくらもあるけど、私はこれが好きなのよ。あなたも好き?」
ベッキイは感嘆のあまり、しばらく言葉も出ないような風でしたが、やがてびくびくした声でいいました。
「私いつか、宮様《プリンセス》を見たことがあるの。公園の外の人混に混って見ていると、いい着物を着た人達が行く中に、一人桃色づくめの衣裳《なり》をした、もう大人になった女の方があったの。それが宮様《みやさま》だったのよ。今しがた、あなたがテエブルに腰かけていらっしゃるのを見た時、私はその女の人を思い出したのよ。お嬢様はちょうど、その宮様《プリンセス》そっくりなのだもの。」
セエラは一人ごとのようにいいました。
「私、時々こんなことを考えたことがあるわ。私も宮様《プリンセス》になりたいなアって。宮様《プリンセス》になったら、どんな気持でしょう。きっともうじき、宮様《プリンセス》になったつもり[#「つもり」に傍点]を始めるのでしょう。」
ベッキイは眼をお皿のようにして、セエラに見とれていました。が、相変らず、セエラが何をいっているのだか判りませんでした。セエラは、じき我にかえって、ベッキイに問いかけました。
「ベッキイ、あなたこの間、私のお話を聞いていたんでしょう。」
「聞いてました。」ベッキイはちょっとまたどぎまぎしました。「私、聞いたりしちゃアいけないと思ったんだけど、でも、あのお話、あんまり面白くって、私――聞くまいと思っても、聞かずにいられなかったの。」
「私も、あなたに聞いてもらいたかったのよ。誰だって聞きたい人に話してあげたいものでしょう? あの話のつづき聞きたくない?」
「私にも聞かして下さるって? あのお嬢様がたのように? 王子様のことや、白い人魚の子のことや、お星様の飾りをつけた髪のことや、みんな聞かして下さるのですって?」
「でも、今日はもう時間がないから駄目じゃアない? これからお掃除に来る時間を教えて下されば、私その時お部屋にいて、少しずつお話してあげるわ。かなり長くて、綺麗なお話よ。それに私、繰り返して話すたびに、何かしら新しいことを入れるのよ。」
セエラの部屋を出たベッキイは、今までの可哀そうなベッキイではなくなりました。
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