下手が五六歩と突いて来ないと、こりや楽だと安心するのである。語を換へて云へば、六五歩と角道を通す手を知らないで上手と二枚落を指すことは、槍の鞘を払はないで突き合つてゐるやうなものである。
 飛香落にも、角落にも、飛落にも、ゼヒとも指さなければならない手があるのである。だから、かう云ふ手を知らないで、戦つたのでは勝てるわけはないのである。しかし、もし六五歩と云つたやうな二枚落の定跡のABCを知らずに、上手と指して勝てる場合があつたら、それは上手がそれだけの力がないので、所謂手合違ひの将棋である。そんな場合は角落の違位しかないのである。語を換へて云へば、定跡を知らなかつたら、上手に向つて角一枚位は損である。定跡を知れば、飛角でも勝てるのが、定跡を知らなければ二枚でも勝てないのである。
 玄人《くろうと》と指した場合、玄人が本当に勝負をしてゐるのか、お世辞に負けたりしてゐるのではないかと云ふことは、頭のいい人なら、誰にでも気になるだらう。「若殿の将棋桂馬の先が利き」といふ川柳があるが、それと同じやうに玄人相手のときは、勝敗とも本当でないやうに考へられる。
 しかし、現今の棋士は、相当の人格を
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング