将棋
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)而《しか》も
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)結局|盤数《ばんかず》を
/\:二倍の踊り字(「く」を縱に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
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将棋はとにかく愉快である。盤面の上で、この人生とは違つた別な生活と事業がやれるからである。一手一手が新しい創造である。冒険をやつて見ようか、堅実にやつて見ようかと、いろ/\自分の思ひ通りやつて見られる。而《しか》も、その結果が直ちに盤面に現はれる。その上、遊戯とは思はれぬ位、ムキになれる。昔、インドに好戦の国があつて、戦争ばかりしたがるので、侍臣が困つて、王の気持を転換させるために発明したのが、将棋だと云ふが、そんなウソの話が起る位、将棋は面白い。金の無い人が、その余生の道楽として、充分楽しめるほど面白いものだと思ふ。
将棋の上達方法は、誰人《だれ》も聴きたいところであらうと思ふが、結局|盤数《ばんかず》を指すのが一番だと思ふ。殊《こと》に、自分より二枚位強い人に、二枚から指し、飛香《ひきやう》、飛、角、香と上つて行くのが、一番たしかな上達方法だと思ふ。
自分は二十五六のときには、初段に二十段位だつた。つまり、初段に大駒二枚位だつたと思ふ。その頃京都にゐたが自分が行つてゐた床屋の主人が、将棋が強かつたので、よくこの人と指した。最初は二枚|落《おち》だつたが、飛車落までに指し込んだ。それから東京へ来た。大正八年頃から、湯島天神下の会所へ通つた。茲《こゝ》の主人は、館花浪路《たてはななみぢ》と云ふ老人で、井上八段の門下で、幸田露伴先生とは同門だつた。時々幸田さんのところへお相手に行つてゐた。この老人は、会所を開くとき、所々の将棋会に出席して賞品の駒や将棋盤を沢山かせぎためて、それで会所を開いたと云ふのだから、可なりの闘将だつたのだらう。この人に自分は、最初二枚を指した。二枚は局|半《なかば》にして相手が、駒を投じた。其後《そのご》飛香落から平手《ひらて》までに指し進んだ。この会所に、三好さんと云ふ老人がゐた。此《この》人は将棋家元大橋家の最後の人たる大橋|宗金《そうきん》から、初段の免状を貰つてゐると云ふ珍らしい人だつた。よく将棋の古実などを話してくれた。ものやはらかいしかし皮肉な江戸つ子で、下手《したて》には殊に熱心に指してくれた。この人も飛香落から指して、平手に進んだ。この頃は、自分として、一番|棋力《きりよく》の進んだときだと思ふ。この会所で、今の萩原六段と知り合になつた。大阪から来たばかりの青年で、まだ土居さんに入門しない前だつた。香落で指して、滅茶苦茶に負けた。恐らく飛角香位違つてゐた。
とにかく、二枚位違ふ人に、だん/\指し進んで行くことは自分の棋力の進歩が見えて、非常に愉快なことである。しかしさう云ふ場合は、絶えず定跡《ぢやうせき》の研究が必要である。二枚落で指してゐるときは二枚落の定跡を、飛香落で指してゐるときは飛香落の定跡をと、定跡の研究を進めて行くべきである。
将棋をうまくならうと思へば、定跡は常に必要である。殊に初段近きまたはそれ以上の上手と指す場合、定跡を知つてゐると云ふことは、第一の条件である。定跡を知らないで上手《うはて》と指すことは、下駄履きで、日本アルプスへ登るやうなつまらない労力の浪費である。例へば、二枚落を指す場合、六五歩と下手が角道《かくみち》を通すか通さないかは、山崎合戦で、天王山を占領するか否か位の大事な手である。自分など下手と二枚落を指し、下手が五六歩と突いて来ないと、こりや楽だと安心するのである。語を換へて云へば、六五歩と角道を通す手を知らないで上手と二枚落を指すことは、槍の鞘を払はないで突き合つてゐるやうなものである。
飛香落にも、角落にも、飛落にも、ゼヒとも指さなければならない手があるのである。だから、かう云ふ手を知らないで、戦つたのでは勝てるわけはないのである。しかし、もし六五歩と云つたやうな二枚落の定跡のABCを知らずに、上手と指して勝てる場合があつたら、それは上手がそれだけの力がないので、所謂手合違ひの将棋である。そんな場合は角落の違位しかないのである。語を換へて云へば、定跡を知らなかつたら、上手に向つて角一枚位は損である。定跡を知れば、飛角でも勝てるのが、定跡を知らなければ二枚でも勝てないのである。
玄人《くろうと》と指した場合、玄人が本当に勝負をしてゐるのか、お世辞に負けたりしてゐるのではないかと云ふことは、頭のいい人なら、誰にでも気になるだらう。「若殿の将棋桂馬の先が利き」といふ川柳があるが、それと同じやうに玄人相手のときは、勝敗とも本当でないやうに考へられる。
しかし、現今の棋士は、相当の人格を
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