姉川合戦
菊池寛
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(例)欺波《しば》
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(例)治郎|大輔《たいふ》
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原因
元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助力を得て、江北姉川に於て越前の朝倉義景、江北の浅井長政の連合軍を撃破した。これが、姉川の合戦である。
この合戦、浅井及び織田にては、野村合戦と云う。朝倉にては三田村合戦と云う。徳川にては姉川合戦と云う。後に徳川が、天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったわけだ。
元来、織田家と朝倉家とは仲がわるい。両家とも欺波《しば》家の家老である。応仁の乱の時、斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に叛《そむ》いた治郎|大輔《たいふ》義敏にくっついた。そして謀計を廻《めぐ》らして義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。だから、織田から云えば、朝倉は逆臣の家であったわけだし、朝倉の方から云えば、織田は陪臣の家だと賤《いや》しんだ。
だが、両家の間に美濃の斎藤と云う緩衝地帯がある内は、まだよかった。それが、無くなった今は、早晩衝突すべき運命にあった。
江北三十九万石の領主浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが、兵馬剛壮、之《これ》を敵にしては、信長が京都を出づるについて不便だった。信長は、妹おいちを娘分として、長政と婚を通じて、親子の間柄になった。
だが、長政は信長と縁者となるについて条件があった。それは、浅井と越前の朝倉とは、代々|昵懇《じっこん》の間柄であるから、今後朝倉とも事端をかまえてくれるなと云うのであった。信長はその条件を諾して、越前にかまわざるべしとの誓紙を、長政に与えた。
永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面した。佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。信長からの数々の進物に対して、長政は、家重代の石わりと名づけたる備前兼光の太刀を贈った。この浅井家重代の太刀を送ったのは、浅井家滅亡の前兆であると、後に語り伝えられた。
然るに無力でありながら陰謀好きの将軍義昭は、近畿を廻る諸侯を糾合して、信長を排撃せんとした。その主力は、越前の朝倉である。
信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪溶くるを待って、徳川家康と共に敦賀表に進発した。
しかも、前年長政に与えたる誓書あるに拘《かかわ》らず、長政に対して一言の挨拶もしなかった。信長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶しては却《かえ》って長政の立場が困るだろうとの配慮があったのだろう、と云われて居る。
決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対しては、これまでにも、可なり好遇している。
だが、信長の越前発向を聞いて、一番腹を立てたのは、長政の父久政である。元来、久政は長政十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男|故《ゆえ》、あまり利口でなく、旧弊で頑固であったに違いない。信長の違約を怒《いか》って、こんな表裏反覆の信長のことだから、越前よりの帰りがけには、きっと此の小谷《おだに》城へも押し寄せて来るに違いない。そんな危険な信長を頼むよりも、此方《こちら》から手を切って、朝倉と協力した方がいいと云った。長政の忠臣遠藤喜右衛門、赤尾|美作《みまさか》などは、信長も昔の信長とは違う、今では畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢等十二ヶ国の領主である。以前の信長のように、そんな不信な事をやるわけはない。それに当家と朝倉とが合体しても、わずか一国半である。到底信長に敵するわけはない。この際は、磯野丹波守に一、二千の兵を出し、形式的に信長に対する加勢として越前に遣わし、只管《ひたすら》信長に頼った方が、御家長久の策であると云ったが、久政聴かず、他の家臣達も、久政に同意するもの多く、長政も父の命に背《そむ》きがたく、遂に信長に反旗を翻して、前後から信長を挾撃することになった。
越前にいた信長は、長政反すると聞いたが、「縁者である上、江北一円をやってあるのだから、不足に思うわけはない筈だ」と、容易に信じなかったが、事実だと知ると、周章して、這々《ほうほう》の体で、間道を京都に引き上げた。此の時、木下藤吉郎承って殿《しんが》りを勤めた。金ヶ崎殿軍として太閣出世|譚《ものがたり》の一頁である。
信長やがて、岐阜に引き上げ、浅井征伐の大軍を起し六月十九日に発向して、浅井の居城小谷に向った。それが姉川合戦の発端である。
戦前記
京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日二万有余の大軍を催して、岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城なる小谷に迫って町家を焼き払った。しかし、浅井が出でて戦わぬので、引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。そして、横山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康の来《きた》るを待った。六月二十七日、家康約五千余騎を率いて来援した。
(家康に取っても、大事な軍《いくさ》であった。信長より加勢を乞われて、家康の諸将相談したが、本多平八郎忠勝、家康に向って曰く、「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れぬが、そうとは限らない。折あらば殿を難儀の軍などさせ戦死をもなさるように工《たく》まぬとも限らない。今度の御出陣|殊《こと》に大事である」と。家康その忠言を欣《よろこ》び、わざと多くの軍勢を引きつれずに行ったのだ。出先で敗れても、国許が手薄にならぬ為の用意であった)
長政も、越前に使を派して朝倉の援兵を乞うた。然るに、義景《よしかげ》自ら出張せず、一族孫三郎|景健《かげたけ》に、約一万の兵を与えて来援せしめた。
長政は、朝倉に対する義理から、……好意から信長に叛《そむ》いているのに、肝心の朝倉義景は、この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。隣の家《うち》が焼けている裡《うち》は、まずまずと云う考えなのである。尤も、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の不覚でもあるが……。
長政、朝倉の来援を得て、横山城を救わんとし、二十五日小谷城を出で、その東|大寄《おおよせ》山に陣を張った。翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
かくて、織田徳川軍は姉川を挾んで浅井朝倉軍と南北に対陣した。
今南軍即ち織田徳川方の陣容を見るに、
織田信長(三十七歳)
――二百四十余万石、兵数六万、姉川に来りしものは、その半数――
第一陣 阪井 政尚《まさひさ》┐
第二陣 池田 信輝│
第三陣 木下 秀吉│
第四陣 柴田 勝家├(兵各三千)
第五陣 森 可成《よしなり》│
第六陣 佐久間信盛┘
本陣 信長(兵五千余)
横山城への抑え
丹羽 長秀(兵三千)
氏家 直元(兵千)
安藤 範俊《のりとし》(兵千)
徳川家康(二十九歳)
――六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来りしもの約五千――
第一陣 酒井 忠次(兵千余)
第二陣 小笠原|長忠《ながただ》(兵千余)
第三陣 石川 数正(兵千余)
本陣 家康(兵二千余)
外に信長より家康への加勢として
稲葉 通朝(兵千余)
徳川家康の部将中、酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけは、そうでない。小笠原は、元、今川家の大将で武功の勇将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方《かみがた》にでも遠征したら、その明巣《あきす》に遠州を掠取《かすめと》らんと云う肚《はら》もないではない。家康もその辺ちゃんと心得ているので、国には置かず、一しょに連れて来たわけである。つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来、戦争に使おうと云うのである。それだけの小笠原であるから、武功の士多く、姉川に於ての働きも亦《また》格別であった。
(『武功雑記』に、「此度《このたび》権現様小笠原与八郎を先手に被《おお》せ付けられ候《そうろう》。与八郎下心に挾む所ありと雖《いえど》も、辞退に及ばずして、姉川にて先手致し勝利を得申し候。其《その》時節与八郎家来渡辺金太夫、伊達与兵衛、中山是非介働き殊に勝《すぐ》れ候て三人共に権現様より御感状下され候。渡辺金太夫は、感状の上に吉光の御腰物下され候事也」とある。この小笠原は、小田原の時亡んだ。恐らく現在の小笠原長幹伯は、その一族だろう)
家康が、到着した時、信長は遠路の来援を謝しながら、明日はどうぞ弱からん方を助けてくれと云った。つまり予備隊になってくれと云うわけだ。家康嫌って、打ち込み(他と入り交っての意ならん)の軍せんこと、弓矢の瑕瑾《かきん》であるから、小勢ではあるが独立して一手の軍をしたいと主張した。もし望みが叶《かな》わなければ、本国に引き返さんと云った。信長、左様に仰せられるのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたい。尤も北国の大敵に向わせられるには、御勢ばかりでは、あまりに小人数である。信長の勢から、誰か撰《えら》んでくれと云った。と、家康は、自分は小国で小勢を使い習っているから、大勢は使えないし、心を知らぬ人を下知するのも気苦労だから、自勢だけで沢山だと云った。信長重ねて、朝倉と云う北国の大軍を家康だけに委したとあっては、信長が天下の嘲《あざけ》りを招くことになるから、義理にでもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、然らば是非に及ばず、稲葉伊予守貞通(通朝、良通などとも云う)をかしてくれと云った。織田の勢より、ただ一人、海道一の弓取たる家康に撰み出されたる稲葉伊予守の面目、思うべしである。
稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人で、斎藤家以来名誉の士だ。茶室で信長に殺されかけたのを、床の間にかかっている韓退之の詩『雲横秦嶺《くもはしんれいによこたわって》』を読んで命を助かった文武兼備の豪傑である。
戦い果てて後、信長、稲葉の功を賞し、自分の一字をやって、長通と名乗れと云う。稲葉|悦《よろこ》ばずして信長に向って曰く、「殿は盲《めくら》大将にして、人の剛臆が分らないのだ。自分は、上方勢の中では、鑓《やり》取る者とも云われるが、徳川殿の中に加わりては、足手|纏《まと》いの弱兵にて一方の役に立ったとも覚えず、自分の勲功を御賞めになるなど、身びいきと云うもので、三河の人の思わむことも恥し」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を賞め上げるなど、外交手段を心得たなかなかの曲者である。
浅井朝倉の陣容は、次ぎの通りだ。
浅井勢
浅井長政(二十六歳)
――三十九万石、兵数約一万――
第一陣 磯野 員昌《かずまさ》(兵千五百)
第二陣 浅井 政澄(兵千)
第三陣 阿閑《あかん》 貞秀(兵千)
第四陣 新庄 直頼(兵千)
本陣 長政(兵三千五百)
朝倉勢(朝倉義景)
――八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万――
第一陣 朝倉 景紀《かげのり》(兵三千)
第二陣 前波新八郎(兵三千)
本陣 朝倉 景健(兵四千)
『真書太閣記』に依ると、浅井朝倉|方《がた》戦前の軍議の模様は、左の通りだ。
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七日の夜|深《ふ》けて長政朝倉孫三郎景健に面会なし、合戦の方便を談合ありけるは、越前衆の陣取《じんどり》し大寄山より信長の本陣龍ヶ鼻まで道程《みちのり》五十町あり。直《じき》に押しかゝりては人馬ともに力疲れて気衰ふべければ、明暁野村三田村へ陣替ありて一息つぎ、二
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