十八日の晨朝《しののめ》に信長の本陣へ不意に切掛り、急に是《これ》を攻めれば敵は思ひよらずして周章すべし、味方は十分の勝利を得べきなりと申しけるに、浅井半助とて武勇|人《ひと》に許されしものながら、先年久政の勘当をうけて小谷を追出され、濃州に立越え稲葉伊予守に所縁あるを以て暫時かくまはれて居たりしかば、信長の軍立《いくさだて》を能々《よくよく》見知りてありけるが、今度《このたび》織田徳川矛盾に及ぶと、浅井を見続《みつ》がずば弥《いよいよ》不忠不義の名を蒙《こうむ》るべしとおもひ、稲葉には暇乞もせず、ひそかに小谷へ帰り、赤尾美作守、中島日向守に就て勘当免許あらんことを願ひしに、久政きかず。殊に稲葉が家にかくまはれしものなれば、いよ/\疑心なきにあらずとて用ひられざりしかば、両人様々に証拠をとりて詫言《わびごと》申せしゆゑ、久政も黙止《もだ》しがたく、然らばとて免許ありて差置かれけるに、此間《このあいだ》信長陣替の時|丁野《ちょうの》若狭守と共に討つて出で合戦し、織田勢あまた討捕りしかども却て、丁野も半助も久政のにくみを受けながら、遠藤|喜右衛門《きえもん》が能く取りなしけるに依《よっ》て、久政も漸《ようや》く思返し、此頃は傍《そば》近く出勤しけるにより、今日評定の席へも差加へられたり。然るに長政の軍慮を承り、御存じの如く某《それがし》は三ヶ年濃州に罷在《まかりあ》りて信長の処置を見覚えて候ふが、心のはやきこと猿猴《えんこう》の梢を伝ふ如き振舞に候へば三田村まで御陣替あらば必ずその手当を仕《つかまつ》り候ふべし。若《も》し総掛りに軍し給はゞ味方難渋仕り候はんか、今|暫時《しばらく》敵の様を御覧ありて然るべきかと申しけるに、長政|宣《のたま》ふ様、横山の城の軍急なれば、其儘《そのまま》に見合せがたし。敵の出で来るを恐れては勿々《なかなか》軍はなるまじ、その上に延々《のびのび》とせば、横山|終《つい》に攻落《せめおと》さるべし。但し此ほかに横山を援《たす》けん術《てだて》あるべきや。今に於ては戦を始むるの外《ほか》思案に及ばずとありけるを聞て、遠藤喜右衛門然るべく覚え候。兎角する内に、横山の城中の者も後詰《ごづめ》なきを恨み降参して敵へ加はるまじきにもあらず、信長当方へ打入りしより以来《このかた》、心のまゝに働かせ候ふこと余りに云甲斐なし、早く御陣替然るべし。思召の如く替へおほせて、二十九日敵陣へ無二無三に切入り給はんには、味方の勝利疑ひ有るべからず。仮令《たとえ》ば敵方にて此方《このほう》の色を察し出向はゞ、その処にて合戦すべし、何のこはきことが候ふべき。喜右衛門に於ては必定信長を撃捕るか討死仕るか二つの道を出で候ふまじと思定め候、早早御出陣然るべしと申すにより、久政も此程遠藤が申すことを一度も用ひずして宜敷事《よろしきこと》無りしかば、此度|許《ばか》りは喜右衛門|尉《じょう》が申す旨に同心ありて、然らば朝倉殿には織田と遠州勢と二手の内|何方《いずかた》へ向はせ給ふべきかと申せしにより、孫三郎何れへなり共罷向ひ申すべくとありしかば、長政いや/\某が当の敵は信長なり、依て某信長に向ひ候ふべし。朝倉殿には遠州勢を防ぎ給はり候ふべしと定めて陣替の仕度をぞ急がれける。遠藤喜右衛門尉は、兼て軍のあらん時敵陣へ紛れ入り、信長を窺《うかが》ひ撃たんと思ひしかば、朋輩の勇士に談《かた》らひ合せけるは、面々明日の軍に打込の軍せんと思ふべからず、偏《ひとえ》に敵陣へ忍び入らんことを心掛くべし。然しながら敵陣へ忍び入り、冥加有て信長を刺し有るとも敵陣を遁《のが》れ帰らんことは難かるべし。然らば今宵限りの参会なり、又此世の名残りなりと酒宴してけるを、諸士は偏へに老武者が壮士《わかもの》を励ます為の繰言とのみ思ひて、何《いずれ》も遠藤殿の仰せらるる迄もなし、我々も明日の軍に討死して、栄名を後世に伝ふべきにて候ふと答へしかば、喜右衛門尉も悦び、左様にてこそ誠の忠臣の道なれ、はや暁も程近し、面々用意にかゝらせ給へとて、思ひ/\に別れけり。
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 かくの如く遠藤の決死は頗《すこぶ》る悲壮であるが、彼は、長政が初めて佐和山に於て信長と対面したとき、信長の到底頼むべからざるを察し、急に襲って討たんことを提議し、長政の容るるところとならなかった事がある。また、今度《このたび》長政が信長と絶縁せんとするや、到底信長に敵しがたきを知って極力|諫止《かんし》せんとした。しかも、いよいよ手切れとなるや、単身敵陣に潜入して、信長を討たんことを決心す。実に、浅井家無二の忠臣と云うべきであろう。
 しかし、今度の戦い、浅井家に取って必死の合戦なりと思い決死の覚後をした者、他にもいろいろ、その中にも、最もあわれなるは浅井|雅楽助《うたのすけ》である。雅楽助の弟を斎宮助《いつきのすけ》と云う。先年世良田合戦、御影寺合戦(永禄三年)終って間もなく、浅井家の家中寄り合い、諸士の手柄話の噂などした。その時、斎宮助、「我等が祖父大和守、又兄なる玄蕃などが働きに及ぶもの家中にはなし」と自慢した。兄雅楽助大いに怒って、かく歴々多き中に、その高言は何事ぞと叱りつけた。兄としては当然の話である。だが、斎宮助、衆人の前にて叱責せらるる事奇怪なりとて、それより兄弟永く不和になっていたが、姉川合戦の前夜、二十七日の夜亥刻(今の十二時)ばかりに、兄の雅楽助、弟斎宮助の陣所に行き、「明日討死をとげる身として何とて不和を残さん。今は遺恨を捨てて、名残の盃《さかずき》せん。父尊霊を見度くば互いの顔を見るこそよけれ」と、眼と眼を見かわしていたが、やがて酒を乞いて汲み交し、譜代の郎党共も呼び、ともに死別生別の杯を汲み交した。
 浅井方の悲壮の決心推して知るべきである。これに比ぶれば、朝倉方は大将自身出馬せず、しかも大将義景の因循姑息の気が、おのずと将士の気持にしみ渡っていただろうから、浅井家の将士ほど真剣ではなかったであろう。

       朝倉対徳川戦

 姉川は、琵琶湖の東北、近江の北境に在る金糞《かねくそ》岳に発した梓《あずさ》川が伊吹山の西に至って西に折れて流るる辺りを姉川と称する。尚《なお》西流して長浜の北で湖水へ入っている。姉川というのは、閻魔《えんま》大王の姉の竜王が此の川に住んでいるから姉川と云い初めたという伝説があるが、閻魔大王の姉に竜王があるという話はあまり聞かないから、之れは土俗の伝説に過ぎないであろう。野村、三田村附近では、右岸の高さは六七尺以上で、昇降には不便であったらしい。只《ただ》当時の水深は、三尺位であったというから、川水をみだして逐《お》いつ逐われつ戦ったわけである。
 六月二十八日午前三時に浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
 払暁を待って横山城を囲んでいる織田軍を攻撃せんと云うのであった。ところが信長が二十七日の夜敵陣にたくかがり火を見て、敵に進撃の気配あるを察し、それならばこちらから、逆撃しようと云うので、姉川の左岸に進出していたから、浅井朝倉軍が展開するのを見るや、先ず織田徳川の軍から、弓銃をもって、挑戦した。これは浅井朝倉勢にとっては可成り意外だったろう。
 三田村の朝倉勢に対するものは家康、野村にある浅井軍に対抗するものは信長勢であった。
 先ず徳川朝倉の間に戦端が開かれた。家康は、小笠原長忠を先陣とし、右に酒井忠次、榊原康政、左に本多平八郎忠勝、内藤信重、大久保|忠世《ただよ》、自分自身は旗本を率いて正面に陣した。
 本多忠勝、榊原康政共に年二十三歳であったから、血気の働き盛りなわけであった。
 朝倉方は、黒坂備中守、小林|瑞周軒《ずいしゅうけん》、魚住|左衛門尉《さえもんのじょう》を先頭として斬ってかかった。徳川家康としても晴れの戦であったから、全軍殊死して戦い、朝倉勢も、亦よく戦った。朝倉勢左岸に迫らんとすれば、家康勢これを右岸に逐い、徳川勢右岸に迫らんとすれば、朝倉勢これを左岸に逐いすくめた。
 其の中《うち》徳川勢|稍《やや》後退した。朝倉勢、すわいくさに勝ちたるぞとて姉川を渡りて左岸に殺到したところ、徳川勢ひき寄せて、左右より之れを迎え撃った。酒井忠次、榊原康政等は姉川の上流を渡り、朝倉勢の側面から横槍を入れて無二無三に攻め立てたので、朝倉勢漸く浮き足立った。徳川勢之に乗じて追撃したので、朝倉軍|狼狽《ろうばい》して川を渡って退かんとし、大将孫三郎景健さえ乱軍の中に取り巻かれた。其の時、朝倉家に於て、唯一の豪の者ときこえた真柄十郎左衛門直隆取って返して奮戦した。十郎左衛門は此の度の戦に景健後見として義景から特に頼まれて出陣した男だ。彼は講釈でも有名な男だが、北国無双の大力である。その使っている太刀《たち》は有名な太郎太刀だ。
 越前の千代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったと云われている。講釈では余り幅が広いので、前方を見る邪魔にならぬよう窓をつけてあったと云う。それは、嘘だろうが、重量を減すため、ところどころ窓があったかも知れぬ。が一説に五尺三寸と云うから、其の方が本当であったろう。だが真柄の領内で、この太刀を担《かつ》げる百姓はたった一人で、常に家来が四人で荷《にな》ったというから、七尺八寸という方が本当かも知れない。
 之に対して次郎太刀というのもあった。其の方は六尺五寸(一説には四尺三寸)あったと云われている。
 直隆、景健の苦戦を見て、太郎太刀を「薙刀《なぎなた》の如く」ふりかざし、馬手《めて》弓手《ゆんで》当るを幸いに薙ぎ伏せ斬り伏せ、竪《たて》ざま横ざま、十文字に馳通《はせとお》り、向う者の兜《かぶと》の真向、鎧《よろい》の袖、微塵になれやと斬って廻れば、流石《さすが》の徳川勢も、直隆一人に斬り立てられ、直隆の向う所、四五十間四方は小田を返したる如くになった。かくて孫三郎景健の危急を救い漸く右岸に退却した。だが、ふり返ると味方が、尚左岸に苦戦してひきとりかねている者が多いのを見て、さらば、援《たす》けえさすべしとて引き返す。
 此時朝倉方の大将、黒坂備中守、前波新八郎、尚左岸にあり奮戦していた。前述して置いた小笠原与八郎長忠は、他国の戦に供奉《ぐぶ》せしは、今度が初めての事なので目を驚かせる程の戦せんとて、黒坂備中守に馳合った。二人とも十文字の槍だったが、小笠原の十文字|稍々《やや》長かった為めに、黒坂が十文字にからみとられ、既に危く見えたのを、小笠原槍を捨て、太刀をひきぬいて、備中守の兜を真向に撃ち、黒坂目くるめきながら、暫《しば》しは鞍にこらえけるを、二の太刀にて馬より下へ斬って落す。黒坂撃たれて、朝倉勢乱れ立ち、全軍危く見えし所に、真柄十郎左衛門及び長男十郎三郎|直基《なおもと》馳《か》け来って、父は太郎太刀、子は次郎太刀を持って縦横に斬り廻ったので、徳川勢も左右に崩れ立ったので、越前勢漸く虎口を遁《のが》れて姉川を渉《わた》りて退く。真柄父子|殿《しんがり》して退かんとする所に、徳川勢の中より匂坂《さきさか》式部同じく五郎次郎同じく六郎五郎、郎党の山田宗六主従四人真柄に馳《か》け向う。真柄「大軍の中より只四人にて我に向うことかわゆし」とて取って返す。式部|手鑓《てやり》にて真柄が草摺《くさずり》のはずれ、一鑓にて突きたれど、真柄物ともせず、大太刀をもって払い斬りに斬りたれば、匂坂が甲《かぶと》の吹返しを打ち砕き、余る太刀にて鑓を打落す。式部が弟五郎次郎、兄をかばわんとて、立ち向うを、真柄余りに強く打ちければ、五合郎が太刀を※[#「金+示+且」、第3水準1−93−34]元《はばきもと》より斬り落し、右手の股《もも》をなぎすえた。五郎、太刀の柄ばかり握って、既に危く見えけるを、弟六郎と宗六|透間《すきま》もなく救《たす》け来《きた》る。
 真柄太刀とり直し、宗六を唐竹割に割りつけたが、其の時六郎鎌鑓にて、真柄を掛け倒す。流石無双の大力の真柄も、六十に近い老《おい》武者であるし、朝より数度の働きにつかれていた為めだろう。起き上ると、尋常に「今は之れ迄なり。真柄が首を取って武士が誉れにせよ」と
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