云った。
六郎、兄の式部に首を取れと云ったが、式部手を負いて叶い難し、汝取れと云ったので六郎走りかかって首を打落した。『太閤記』では、匂坂兄弟が真柄一人にやられているところに、本多平八郎忠勝馬をおどらせ馳せ来り、一丈余りの鉄の棒をもって、真柄と決戦三十余合、北国一と聞えたる勇士と東国無双と称する壮士とが戦い、真柄が老年の為めに、遂に忠勝に撃たれることになっている。
併《しか》しこれは、勇士真柄の最期を飾る為めに本多忠勝の為めに撃たれたことにしたのであろう。真柄と忠勝とが、三十余合撃ち合ったとすれば、戦国時代の一騎討として、これに勝るメイン・エヴェントはないわけだが、本当は矢張り、匂坂兄弟に撃たれたのであろう。
子の十郎直基(隆基という本もある)は、父が撃たれたと聞くと、せめて父が討死せしところを見ばやと、馬を返す所を、青木所左衛門出で合い、「音に聞えし真柄殿、何処《どこ》へ行き給うぞや、引返し勝負あれ」と呼びければ、「引くとは何事ぞ、悪《にく》い男の言葉|哉《かな》。いでもの見せん」と云うままに、父に劣りし太刀なれど、受けて見よやと、六尺五寸の次郎太刀打ち振り、青木の郎党が立ち塞がるを、左右に斬って落す。所左衛門、鎌鑓を打ちかけ、直基が右手の肱《ひじ》を斬って落す。直基、今は之れまでと思いけん、尋常に首を授く。
越前勢一万余騎の中、真柄父子の勇戦と、この尋常の最期とは、後迄も長く伝えられたとある。尚『太閤記』によると、直基は討死する前に父のかばねと父が使っていた太刀とを郎党に持たせて、本国へ返したようにかいてある。戦争中、そんな余裕は無いように思われるが、併し昔の戦争は、呑気《のんき》なところもあるから、そんな事があったかも知れない。
『三州志』によると、加賀の白山神社の真柄の太刀と伝称し来《きた》るものあり、柄が三尺、刀身が六尺、合せて九尺、厚さ六分、幅一寸六分あり、鎌倉の行光の作である。行光は正宗の父である。ところが越前の気比《けび》神社に真柄の太刀の鞘《さや》だけがある。其の鞘には、小豆が三升入る。此の鞘の寸法と白山神社の鞘の寸法とは、少し違っているという事である。
姉川の沿岸は、水田多く、人馬の足立たず、殊に越前勢は、所の案内を知らざる故、水田沼沢の地に人馬陥り、撃たるる者が多かった。真柄父子を始めとし、前波兄弟、小林瑞周軒、竜門寺、黒坂備中守等大将分多く討死した。之に比べると、案内を知った浅井方の討死は少かった。
こう書いてくると徳川勢は余り苦心をしていないようだ。併し朝倉勢に、裏切り組というのがあり、百人位の壮士を選び、各人四尺五寸、柄《え》長く造らせたる野太刀を持ち、戦いの最中、森陰から現われて、不意に、家康の旗本へ切りかかった。為に旗本大いに崩れ立ち、清水久三郎等家康の馬前に立ち塞がり、五六人斬り伏せたので、漸く事無きを得た。
之れは後年の話だが、徳川|頼宣《よりのぶ》がある時の話に「加藤喜介正次は、常に刀脇ざしの柄に手をかけ居り候に付き、人々笑ったところ、加藤喜介曰く『姉川合戦の時、朝倉が兵二騎味方の真似して、家康公の傍《そば》へ近付き抜きうちに斬らんとした。喜介常に刀に手をかけ居る故、直ちに二騎の一人を斬りとめ他の一人は天野三郎兵衛討止めた。此の時家康公も太刀一尺程抜き、その太刀へ血かかる程の事なり。だから平生でも刀の柄に手をかけているのだ』と云ったと云うが、喜介よりも其の朝倉の兵はもっと勇敢だ。敵の中に只二人だけ乗り込み討死す。而も二人の首の中に『一足|無間《むげん》』と云う、誓文を含んでいたと云う。さてさて思い切った、豪の者なり」と、褒めたというが、これで見ても、かなり朝倉方もやった事が分る。
朝倉勢が姉川を越えて、徳川軍に迫った時は、相当激しかったのだろう。
浅井軍の血戦
浅井を向うに廻した織田勢の方は、もっと苦戦であった。浅井方の第一陣、磯野丹波守は勇猛無双の大将だ。其の他之に従う高宮三河守、大野木大和守その他、何れも武勇の士である。元来浅井軍は中々強いのだ。だから木下藤吉郎が、一番陣を望んだが許されなかった。それは、秀吉の軍勢は、多年近江に居て浅井軍と接触している為め、浅井の武威に恐れているだろうという心配だった。従って信長も長政を優待して、味方にしておき度かったのだ。丹波守を先頭に、総勢五千余騎、鉄砲をうちかけて、織田の一番陣、酒井右近の陣に攻めかかる。丹波守自ら鑓をとって先頭に進み、騎馬の強者《つわもの》真先に立って殺到した。
右近の陣は鉄砲に打ちすくめられ嫡子久蔵(十六歳)を初め百余人撃たれて、敗走した。二番|側《ぞな》え池田勝三郎も丹波守の猛威に討靡《うちなび》けられて敗走した。
『太閤記』によると第三陣の木下秀吉が奮戦して丹波守を敗る事になっているが、之れは秀吉中心の本だから、いつでも、秀吉が手柄を現すようにかいてある。本当は信長の陣が十三段の備えの内十一段まで崩れたというから、木下秀吉、柴田勝家、森可成の驍将《ぎょうしょう》達も一時は相当やられたらしい。一時は姉川から十町ばかりを退却したというから、信長の旗本も危険に瀕したに違いない。只家康の方が早くも朝倉勢に勝色《かちいろ》を見せ初めたので家康の援軍として控えている稲葉一徹が、家康の方はもう大丈夫と見て、浅井勢の右翼に横槍を入れたのと、横山城のおさえに残しておいた氏家《うじいえ》卜全と安藤伊賀とが浅井勢の左翼を攻撃した。こうした横槍によって、織田軍はやっと盛り返して浅井勢を破ったのだ。
戦後、信長、「義濃三人衆の横槍弱かりせば我が旗本粉骨をつくすべかりしが」と云って稲葉、氏家、安藤三人に感状、名馬、太刀等をやったところを見ると、戦いの様子が分ると思う。それに家康の方が先に朝倉に勝ったので、浅井の将士も不安になって、みだれ始めたのだろう。
徳川と織田とは、非常に離れて戦っているようであるが、最後には乱戦になったらしく、酒井忠次の払った長刀《なぎなた》のほこ先が信長勢の池田勝三郎信輝の股に当った位だ。後年、人呼んで此の傷を左衛門|疵《きず》と云った。池田と酒井とは、前夜信長の前で、家康を先陣にするかしないかで議論をし合った仲なのだ。其の時酒井は、「兎角の評議は明日の鑓先にある」と云って別れて帰った。だから酒井の長刀が池田の股に当ったことは二人とも第一戦に立って奮戦していたわけで、双方とも前夜の言葉に違《たが》わなかったわけで、「ゆゆしき振舞いかな」と人々感じあったと云う。
浅井勢の中に於て、其の壮烈、朝倉の真柄直隆に比すべきものは、遠藤喜右衛門尉だ。喜右衛門の事は前にも書いてあるが、喜右衛門は、単身信長に近づいて差違えるつもりであった。彼は首を提《さ》げて血を以って面《おもて》を穢《けが》し髪を振り乱し、織田勢に紛れ込み、「御大将は何処《いずこ》に在《おわ》しますぞ」と探し廻って、信長のいるすぐ側迄来たところ、竹中半兵衛の長子久作|之《これ》を見とがめ、味方にしては傍目《わきめ》多く使うとて、名乗りかけて引き組み、遂に遠藤の首をあげた。久作、かねて朋友に今度《このたび》の戦、我れ必ず遠藤を討取るべしと豪語していた。友人が其の故を問うと、久作曰く、「我れ且て江《ごう》州に遊んで常に遠藤と親しむ、故によくその容貌を知っている。遠藤戦いある毎に、必ず魁《さきがけ》殿《しんがり》を志す、故に我必ず彼を討ち取るべし」と。果して其の言葉の通りであった。
喜右衛門は、信長と戦端を開く時には、浅井家長久の為めに極力反対したが、いざ戦うとなると、壮烈無比な死に方をしている。浅井家第一の忠臣と云ってもいいだろう。
浅井方の大将安養寺三郎左衛門は、織田と浅井家の同盟を斡旋《あっせん》した男だ。長政を落さんとして奮戦中馬を鉄砲で射られて落馬したので、遂に擒《いけど》りにせられて信長の前に引き据えられた。信長は安養寺には好意を持っていたとみえ「安養寺久しく」と云った。安養寺、言葉なく、「日頃のお馴染に疾《と》く疾く首をはねられ候え」と云ったが、「汝は仔細ある者なれば先ず若者共のとりたる首を見せよ」と云った。つまり、名前の分らない首の鑑定人にされたわけだ。小姓織田|於直《おなお》の持ち来れる首、安養寺見て「これは私の弟甚八郎と申すものに候」と云った。また、小姓織田於菊の持ち来れる首「これは私の弟彦六と申すものにて候」と申す。信長、「さてさて不憫《ふびん》の次第なり、汝の心底さぞや」と同情した。
竹中久作が取りたる首を見すれば、
「之れは紛れもなく喜右衛門尉にて候。喜右衛門尉一人|諫《いさ》めをも意見をも申して候。其の他には誰一人久政に一言申すもの候わず。浅井の柱石と頼みし者に候」と云った。
其の後信長、安養寺に、此の勢いに乗って小谷に押しよせ一気に攻め落さんと思えど如何と聞いた。安養寺笑って、「浅井がために死を急く某《それがし》に戦の進退を問わせ給う殿の御意こそ心得ぬが、答えぬのも臆したるに似ているから答えるが、久政に従って小谷に留守している士《さむらい》が三千余人は居る。長政と共に退却した者も三千余人は候うべし。其の上兵糧、玉薬《たまぐすり》は、年来貯えて乏しからず、半年や一年は持ちこらえ申すべし」と答えた。
この安養寺の答で、秀吉が小谷城進撃を進言したにも拘わらず、一先ず軍を返した。その後、浅井は尚三年の久しきを保つ事が出来た。或書に、此の時、秀吉の策を用い、直ちに小谷を攻撃したならば、小谷は一日も支える事が出来なかったのに、安養寺が舌頭に於て信長に疑惑の思いを起したのは、忠節比類無しと褒めてある。
信長は、安養寺が重ねて「首をはねよ」と云うをきかず自分に従えよとすすめたが聴かないので、「然らば立ち帰りて、浅井に忠節を尽せよ」とて、小谷へ帰した。忍人《にんじん》信長としては大出来である。
浅井勢は総敗軍になって小谷城へ引上げたが、磯野丹羽守は、木下秀吉、美濃三人衆等に囲まれて散々に戦い、手勢僅か五百騎に討ちなされながら、織田軍の中を馳《か》け破って、居城、佐和山へ引上げた。稲葉一徹の兵、逐わんとしたが、斎藤|内蔵助《くらのすけ》、「磯野の今日のふるまいは、凡人に非ず、追うとも易く討ち取るべきに非ず」とて逐わしめなかった。
此の戦いは、元亀元年六月二十八日だから、未だ真夏と云ってもよい位だから、勝った信長の軍勢も、暑さで、へとへとに疲れていただろうし、すぐ手数のかかる攻囲戦に従う事は信長にしても考えたのだろう。元亀は三年で天正と改元した。朝倉が亡んだのは、天正元年の八月で、浅井が亡んだのは其の翌月の九月であった。その三年間浅井朝倉が聯合して江北に於ていくらか策動しているが、併し戦前の勢に比べると、もう見るかげもなくなっていた。
此の戦いに於て、男をあげたのは家康で、信長の為めに、粉骨の戦をなして、恩をきせると共に自分の地位を築いたわけである。徳川家に関係のある本には、姉川の勝利は神君の力であるというように書いてあるが、そういうひいき目をさし引いても、家康に取っては、正に出世戦争とも云うべきであろう。
姉川合戦の直後、信長が秀吉の策を用いて、すぐ小谷城を攻め落したならば、長政の妻のお市殿には、未だ長女のお茶々は生れていないだろう。結婚したのが、永禄十一年四月だから、生れていたかどうか、多分まだ腹の中にいたのである。すると落城のドサクサまぎれに、流産したかも知れないし、淀君など云うものは、生れて来なかったかも知れん。
つまり秀吉は、後年溺愛した淀君を抹殺すべく、小谷城攻略を進言したことになる。しかし、淀君が居なかったら、豊臣家の社稷《しゃしょく》はもっとつづいたかも知れない。そんな事を考えると、歴史上の事件にはあらゆる因子のつながりがあるわけだ。
底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5−86)(「十二ヶ国」等)を大振りに、地名などに用いる「ヶ」(「金ヶ崎殿軍」等)を小振りにつくっていま
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