軍に対抗するものは信長勢であった。
先ず徳川朝倉の間に戦端が開かれた。家康は、小笠原長忠を先陣とし、右に酒井忠次、榊原康政、左に本多平八郎忠勝、内藤信重、大久保|忠世《ただよ》、自分自身は旗本を率いて正面に陣した。
本多忠勝、榊原康政共に年二十三歳であったから、血気の働き盛りなわけであった。
朝倉方は、黒坂備中守、小林|瑞周軒《ずいしゅうけん》、魚住|左衛門尉《さえもんのじょう》を先頭として斬ってかかった。徳川家康としても晴れの戦であったから、全軍殊死して戦い、朝倉勢も、亦よく戦った。朝倉勢左岸に迫らんとすれば、家康勢これを右岸に逐い、徳川勢右岸に迫らんとすれば、朝倉勢これを左岸に逐いすくめた。
其の中《うち》徳川勢|稍《やや》後退した。朝倉勢、すわいくさに勝ちたるぞとて姉川を渡りて左岸に殺到したところ、徳川勢ひき寄せて、左右より之れを迎え撃った。酒井忠次、榊原康政等は姉川の上流を渡り、朝倉勢の側面から横槍を入れて無二無三に攻め立てたので、朝倉勢漸く浮き足立った。徳川勢之に乗じて追撃したので、朝倉軍|狼狽《ろうばい》して川を渡って退かんとし、大将孫三郎景健さえ乱軍の中に取り巻かれた。其の時、朝倉家に於て、唯一の豪の者ときこえた真柄十郎左衛門直隆取って返して奮戦した。十郎左衛門は此の度の戦に景健後見として義景から特に頼まれて出陣した男だ。彼は講釈でも有名な男だが、北国無双の大力である。その使っている太刀《たち》は有名な太郎太刀だ。
越前の千代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったと云われている。講釈では余り幅が広いので、前方を見る邪魔にならぬよう窓をつけてあったと云う。それは、嘘だろうが、重量を減すため、ところどころ窓があったかも知れぬ。が一説に五尺三寸と云うから、其の方が本当であったろう。だが真柄の領内で、この太刀を担《かつ》げる百姓はたった一人で、常に家来が四人で荷《にな》ったというから、七尺八寸という方が本当かも知れない。
之に対して次郎太刀というのもあった。其の方は六尺五寸(一説には四尺三寸)あったと云われている。
直隆、景健の苦戦を見て、太郎太刀を「薙刀《なぎなた》の如く」ふりかざし、馬手《めて》弓手《ゆんで》当るを幸いに薙ぎ伏せ斬り伏せ、竪《たて》ざま横ざま、十文字に馳通《はせとお》り、向う者の兜《かぶと》の真向、鎧《よろい》の袖、微塵
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