姉川合戦
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)欺波《しば》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)治郎|大輔《たいふ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「金+示+且」、第3水準1−93−34]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
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       原因

 元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助力を得て、江北姉川に於て越前の朝倉義景、江北の浅井長政の連合軍を撃破した。これが、姉川の合戦である。
 この合戦、浅井及び織田にては、野村合戦と云う。朝倉にては三田村合戦と云う。徳川にては姉川合戦と云う。後に徳川が、天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったわけだ。
 元来、織田家と朝倉家とは仲がわるい。両家とも欺波《しば》家の家老である。応仁の乱の時、斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に叛《そむ》いた治郎|大輔《たいふ》義敏にくっついた。そして謀計を廻《めぐ》らして義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。だから、織田から云えば、朝倉は逆臣の家であったわけだし、朝倉の方から云えば、織田は陪臣の家だと賤《いや》しんだ。
 だが、両家の間に美濃の斎藤と云う緩衝地帯がある内は、まだよかった。それが、無くなった今は、早晩衝突すべき運命にあった。
 江北三十九万石の領主浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが、兵馬剛壮、之《これ》を敵にしては、信長が京都を出づるについて不便だった。信長は、妹おいちを娘分として、長政と婚を通じて、親子の間柄になった。
 だが、長政は信長と縁者となるについて条件があった。それは、浅井と越前の朝倉とは、代々|昵懇《じっこん》の間柄であるから、今後朝倉とも事端をかまえてくれるなと云うのであった。信長はその条件を諾して、越前にかまわざるべしとの誓紙を、長政に与えた。
 永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面した。佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。信長からの数々の進物に対して、長政は、家重代の石わり
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