四条畷の戦
菊池寛
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建武中興の崩壊
中島商相が、足利尊氏のために、災禍を獲た。尊氏の如く朝敵となったものは、古来外にも沢山ある。朝敵とならないまでも、徳川家康以下の将軍などは、それに近いものである。殊に温厚そうに見える二代将軍秀忠の如き、朝廷に対して、悪逆を極めている。
だが、尊氏|丈《だけ》が、どうして百世の下、なお憎まれ者になっているか。それは、純忠無比な楠公父子を向うに廻したからである。尤も、中島商相を弾劾した菊池中将(九州の菊池神社を中心として、菊池同族会なるものあり、中将はその会長である。自分もその会員である)の先祖たる菊池氏も亦、五百年間勤王|一途《いちず》の忠勤をつくした家柄で、山陽をして「翠楠必ずしも黄花に勝らず」と云わしめたが、活躍の舞台が、近畿でないから、楠公父子の赫々《かくかく》たる事蹟には及ばない。今、四条|畷《なわて》の戦いを説くには、どうしても建武中興が、如何にして崩壊したかを説かねばならない。
元弘三年六月五日、後醍醐天皇は王政復古の偉業成って、めでたく京都に還幸された。楠正成、名和|長年《ながとし》以下の凱旋《がいせん》諸将を従えられ、『増鏡』に依ると、其の行列は二条富小路の内裏《だいり》から、東寺の門まで絡繹《らくえき》として続いたとある。供奉《ぐぶ》の武将達も、或は河内に、或は|伯耆《ほうき》に、北条氏討滅の為にあらゆる苦悩を味った訳であるから、此の日の主上及び諸将の面上に漂う昂然たる喜色は、想像出来るであろう。
かくて建武中興の眼目なる天皇親政の理想は、実現されたのである。だがそれと同時に、早くも此の新政府の要人連の間に、逆境時代には見られなかった内部的対立が兆《きざ》していた。つまり武家と公卿《くげ》が各々、自分こそ此の大業の事実上の功労者であると、銘々勝手に考え出して来た為である。
武家にすれば、実力の伴わぬ公卿達の如何にもとり澄した態度が気に食わなかったに違いない。恐らくは、「俺たちに泣きついて来た当時を忘れたのか」と言い度いところであろう。それに一緒に仕事をしてみても、何だか調子が会わない。その平和になって、文事ばかりになると、河原の落書にまで「きつけぬ冠上のきぬ、持もならわぬ笏もちに、大裏交りは珍らしや」と愚弄されるのも癪《しゃく》に触る。その上、素朴な一般武士の頭には、延喜|天暦《てんりゃく》の昔に還らんとする、難しい王政復古の思想など、本当に理解される訳はないのである。
唯自分達の実力を信ずる彼等は、北条氏を滅ぼしたのは、俺達の力だと確く信じ、莫大なる恩賞を期待して居るのである。
一方公卿の方にも、此等の粗野ではあるが単純な武家に対して、寛容さを欠いて居たし、之をうまく操縦する方略にも欠けていた。頼朝以来武家に奪われていた政権が、久し振りで自分達の掌中に転がり込んだのであるから、有頂天になるのは無理もないが、余りにも公卿第一の夢の実現に急であった。窮迫した財政の内から、荘厳なる大内裏の造営を企てたりした。其他地方官として赴任した彼等の豪奢な生活は、大いに地方武士の反感を買った。一時の成功にすぐ調子に乗るのは、苦労に慣れない貴族の通性であろう。彼等はしばしば厳然たる存在である武家を無視しようとした。
北畠親房は『神皇正統記』に於て、武家の恩賞を論じて「天の功を盗みて、おのが功と思へり」と言って居る。歴史家として鋭い史眼を持って居た親房程の人物でも、公家本位の偏見から脱する事が出来なかったのである。
これでは武家も収らない。
『太平記』の記者は、
「日来《ひごろ》武に誇り、本所《ほんじょ》を無《なみ》する権門高家の武士共いつしか諸庭奉公人と成《なり》、或は軽軒香車の後に走り、或は青侍格勤の前に跪《ひざまず》く。世の盛衰、時の転変、歎ずるに叶はぬ習とは知りながら、今の如くにして公家《こうけ》一統の天下ならば、諸国の地頭御家人は皆奴婢|雑人《ぞうにん》の如くにてあるべし」
と、その当時武士の実状を述べて居る。
其の上、多くの武士には恩賞上の不満があった。彼等の忠勤は元来、恩賞目当てである。亦朝廷でも、それを予約して味方に引き入れたのが多いのである。云わば約束手形が沢山出されていたのである。
後醍醐天皇が伯耆船上山に御還幸の時、名和長重は「古より今に至るまで、人々の望む所は名と利の二也」と放言して、官軍に加ったことが『太平記』に見える。其の真疑はとにかく、先ず普通の地方武士など大体こんな調子であろう。伝うる所によれば、諸国から恩賞を請うて入洛し、万里小路《までのこうじ》坊門の恩賞局に殺到する武士の数は、引きも切らなかったと言う。だから充分なる恩賞に均霑《きんてん》し得ない場合、彼等の間に、不平不満の声の起きるのは当然である。
或日、塩谷《えんや》判官高貞が良馬竜馬を禁裡に献上したことがあった。天皇は之を御覧じて、異朝は知らず我が国に、かかる俊馬の在るを聞かぬ、其の吉凶|如何《いかに》と尋ねられた。側近の者皆|宝祚《ほうそ》長久の嘉瑞《かずい》なりと奉答したが、只万里小路藤房は、政道正しからざるに依り、房星の精、化して竜馬となり人心を動揺せしめるのだと云って、時弊を痛論した。即ち元弘の乱に官軍に加った武士は、元来勲功の賞に与《あずか》らん為のみであるから、乱後には忽ち幾千万の人々が恩賞を競望して居る。然るに公家《くげ》一味の者の外は、空しく恩賞の不公正を恨み、本国に帰って行く。かかる際にも不拘《かかわらず》、大内裏の造営は企劃され、諸国の地頭に二十分の一の得分をその費用として割当てて居る。其上、朝令暮改、綸旨《りんし》は掌《たなごころ》を飜す有様である。今若し武家の棟梁《とうりょう》たる可き者が現れたら、恨を含み、政道を猜《そね》むの士は招かざるに応ずるであろう。夫れ天馬は大逆不慮の際、急を遠国に報ずる為め聊《いささ》か用うるに足る丈である。だから竜馬は決して平和の象徴ではない、と云うのだ。
それが、『太平記』の有名な竜馬|諫奏《かんそう》の一挿話である。元来太平記は文飾多く、史書として其の価値を疑われ、古来多くの学者から排撃されて居る。併し藤房をして中興政治の禍根を指摘させて居る所など、『太平記』著者の史眼は烱々《けいけい》として、其の論旨は肯綮《こうけい》に当って居ると思う。
思うに尊氏はその所謂棟梁である。門閥に於ては源氏の正統であり、北条氏でさえ之と婚姻を結ぶのを名誉と考えた程の名家である。何時頃から此の不平武士の棟梁としての自分を意識したか知らないが、六波羅滅亡後、一時京都が混乱に陥った時、早速奉行所を置いて時局を収拾した芸当など、実に鮮かなものである。一見極めて矛盾した様な性格らしく、それだけに政治家としては、陰翳《いんえい》が多い訳だ。
だから誇張されれば、いくらでも悪人になり得る。直木三十五は「尊氏は成功した西郷隆盛である」と評して居るが、人物としては相当なものである。中島商相位に賞められてもいいのであるが、前にも云った如く、人間として純粋無比な楠公父子を相手にしなければならなかった所に、彼の最大の不幸があると思う。恐らく勝利の悲哀を此の男程痛切に味った者は、国史には尠《すくな》いのではなかろうか。
正成と正行
楠氏は元来橘氏の出である。勿論其の由緒に就ては詳しいことは何も分らない。当時、河内の東条川に拠った一小豪族に遇ぎないのだ。
恐らく挙兵前の大楠公は、地方によく有る好学の精神家であり、戦術家であったろうと思う。
足利、新田の如く源家嫡流の名家でもないし、菊池、名和の如く北条氏に対して百年の怨讐《おんしゅう》を含んでいたわけでもない。亦皇室から特別の御恩を戴いたこともないだろう。然るに渺《びょう》たる河内の一郷士正成が敢然立って義旗を翻すに至った動機には、実に純粋なものがあるのだ。学者の研究に依ると、正成は宋学の造詣《ぞうけい》が相当深かった様だ。宋学の根本思想の一つは忠孝説である。つまり学問的に正成は忠義の何物たるかを熟知して居たのだから迷わないのだ。最初から、功利的忠義ではないのだ。尚、宋学は当時後醍醐天皇初め南朝公家の間に盛に行われて居たから、正成は天皇と同系統の学問をして居たことになる。南柯《なんか》の夢で正成を笠置に召し出したのが奉公の最初であるとする、『太平記』の説はさて措《お》き、早くからこの君臣の間に、ある関係があったことは想像出来る。正中の変前に、日野俊基が山伏姿で湯治と称し、大和、河内に赴いたことは、『増鏡』や『太平記』に立派に記《しる》してあるが、恐らくこんな時、楠氏と朝廷とが結ばれたのかも知れない。或はもっと早く、学問上の関係から、天皇と正成は相共鳴する所があったのではあるまいか。
とにかく正成は出発点からして、他の多くの諸将と違って居る。つまり学問上の信念を純粋に実践に依って生かして居るからだ。『太平記』の記者などは、所きらわず正成を褒め倒して居るが、これなども戦記作者を通じて、当時一般の輿望《よぼう》が現われているのである。
或日、武将達が集って、建武中興で一番手柄のあった者は誰だろうと議論があった。各々我田引水の手柄話に熱を上げて居ると、正成は「それは菊池(武時)だろう」と言った。滅多に人をほめたことのない新田義貞も、此の一言には非常に感動したと云う(『惟澄文書』)。その謙抑知るべしだ。
戦後の論功行賞にしてもそうだが、尊氏や義貞に比して、正成は寧ろ軽賞である。それでも黙々として忠勤を励む其の誠実さは、勘定高い当時の武士気質の中にあって、燦然《さんぜん》として光っている。
最近公刊されたものであるが『密宝楠公遺訓書』と云う本がある。正成が正行《まさつら》に遺言として与えたものであると云う。その中に、
「予討死する時は天下は必ず尊氏の世となるべし。然りと云へども、汝、必らず義を失ふことなかれ。夫れ諸法は因縁を離れず。君となり臣となること、全く私にあらず。生死禍福は、人情の私曲なるに随《したが》はず。天命歴然として遁《のが》るゝ処なし」とある。少し仏法臭を帯びては居るが、秋霜烈日の如き遺言である。名高い桜井の訣別の際の教訓にしてもそうだが、兎に角|斯《こ》うした一種の忠君的スパルタ教育で、小楠公は鍛えられたのだ。幼少時代の正行を記すものは、『太平記』唯一つである。湊川《みなとがわ》で戦死した父の首級を見て、自殺せんとして母に諫《いさ》められ、其の後は日常の遊戯にまで、朝敵を討ち、尊氏を追う真似ばかりして居たと云う。
思うに彼を取巻く総《すべ》ての雰囲気が、此の少年を、亡父の義挙を継ぐべき情熱へと駆り立てて行ったのであろう。
『吉野拾遺』に、正行が淫乱な師直《もろなお》の手から弁内侍を救ったと云う有名な話がある。
「正行なかりせばいと口惜しからましに、よくこそ計ひつれ」と後村上帝が賞讃し、内侍を正行に賜らんとした。すると正行は、
「とても世に、ながらふべくもあらぬ身の、仮の契をいかで結ばん」
と奏して辞したと云う。
多分に禁欲的な、同時に自己の必然的運命を早くから甘受して居る聡明な青年武将の面影が躍如としている。
正行の活動
延元四年の秋、後醍醐天皇は吉野の南山|行宮《あんぐう》に崩御せられた。北畠親房は常陸関城にあって此の悲報を聞き、「八月の十日あまり六日にや、秋露に侵されさせ給ひて崩《かく》れましましぬと聞えし。寝《ぬ》るが中なる夢の世、今に始めぬ習ひとは知りながら、かず/\目の前なる心地して、老《おい》の涙もかきあへねば筆の跡さへ滞りぬ」と『神皇正統記
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