』の中で慟哭《どうこく》して居る。
正成|夙《つと》に戦死し、続いて北畠|顕家《あきいえ》は和泉に、新田義貞は北陸に陣歿し、今や南朝は落漠として悲風吹き荒《すさ》び、ひたすら、新人物の登場を待って居た。
そこへ現れたのが、楠正行である。彼は近畿に残存する楠党を糾合し、亡父の遺訓に基いてその活動を開始したのである。
元来楠党は山地戦に巧みである。正成が千早城や金剛山に奇勝を博し得たのは、一に彼等の敏捷な山地の戦闘力に依ったのである。従って正成の歿後も、河内、摂津、和泉地方の楠党は山地にかくれ頑強に足利氏に抵抗して居たのである。だからそうした分散的な諸勢力を一括した正行は、今や北朝にとっては一大敵国をなして居るわけだ。
正平二年七月、畿内の官軍は本営を河内東条に移し、菊水の旗の本に近畿の味方を招集し始めた。即ち北畠親房、四条|隆資《たかすけ》等の共同作戦計画が出来たので、本営を此の地に据えて、吉野の軍と相策応したのである。実に正成の本拠であった河内東条と、行宮のある吉野は、官軍の二大作戦根拠地であった。時の京畿《けいき》官軍の中心は言うまでもなく、正行の率いる楠党であった。
八月十日、正行は和泉の和田氏等の軍を以て紀伊に入り、隅田城を急襲して居る。これは東条と吉野との連絡を確実にする為であって、大楠公の赤坂再挙の戦略と全然同一のものである。果然これを機会として京畿の官軍は一時に蜂起し、紀伊熊野諸豪多く官軍に応じ、和泉摂津にも之に響応する者が少くなかった。此の報を得た賊軍側は大いに駭《おどろ》き、細川|顕氏《あきうじ》に軍を率いしめ、八月十九日に大阪天王寺を出発せしめて居るが、彼は泉州に於ける優勢な楠勢にはとても敵せぬと、京都に報告して居る。小康を得て居た当時の京都の人心は為に恟々《きょうきょう》として畏怖動揺したとみえる。洞院|公賢《きみかた》は其の日記に此の仔細を記して居るが、京都の諸寺一時に祈祷の声満つると云う有様であった。
然るに楠軍は一旦兵を河内に還して居る。そして九月九日に八尾城を攻撃し、十七日には河内の藤井寺附近に於て、大いに顕氏の軍を破り、正行は初陣の武名を挙げたのである。
『細々要記』に「京都より細川陸奥守以下数十人河内発向藤井寺に陣す。其夜正行等不意に寄せ来り合戦。京勢敗北死人数を知らず」とあるから、今や正行怖る可しと痛感したようだ。
次いで十一月二十六日、正行は和田助氏を先陣として住吉天王寺附近の敵を邀撃《ようげき》した。此の戦勝は圧倒的であり、したたかにやられた賊軍はすっかり、狼狽したらしい。彼等の記録に、「今夕《こんせき》討死、疵《きず》を蒙る輩数を知らず。以《もって》の外のことなり。之を為すこと如何」と放心の状である。
此の戦《いくさ》は霜月のことであるから、橋から落ちて流れる敵兵五百余人の姿は、惨澹たるものがあった。正行は是を憫《あわれ》んで彼等を救い上げ、小袖を与えて身を温め、薬を塗って創《きず》を治療せしめたと『太平記』にある。「されば敵ながら其情を感ずる人は、今日より後心を通はせん事を思ひ、其の恩を報ぜんとする人は、軈《やが》て彼の手に属して、後四条畷手の戦に討死をぞしける」いくらか美化して書いたのであろうが、小楠公を飾る絶好の美談であろう。
周章した足利直義は、遂に十二月、高師直《こうのもろなお》、師泰兄弟を総大将として中国、東海、東山諸道の大軍を率いて発向せしめ、最後の決戦を企てた。
元来正行は常に寡兵を以て、敵の不意を襲って大勝利を得て居る。尤もそれより外に方法はないのだ。四条畷の戦では、敵は比較にならぬ程の大軍であり、其の精兵は日一日と増加して居る。佐野佐衛門氏綱の軍忠状に依ると、合戦の日の五日の日にまで、敵には続々馳せ参ずる兵があったと云う。此の敵に対し堂々の陣を張る事が不得策であるのは、明瞭であるから、正行は敢て東条に退いて自重せず、速戦速決で得意の奇襲に出でたと解す可きだろう。時|恰《あだか》も鎮西に於ける官軍の活動も活溌であった。正行にすれば、此の際東西相呼応する大共同作戦も胸中に描いて居たらしい。併し何としても敵は十数ヶ国の兵を集めて優勢である。味方は、河内和泉などの寡兵である。南朝恢復の重任を以て任じて居たものの、正行も、到底勝つべき戦とは思っていなかったであろう。
正行の戦死
今や楠党は主力を東条に集結し、別軍は河内の暗《くらがり》峠を固めて、敵を待った。此の間、彼が作戦奏上の為め、吉野に参廷したあたりは、正に『太平記』中の圧巻であって、筆者は同情的な美しい筆を自由に振って、悲愴を極めた光景を叙述している。
即ち、参廷して父の湊川に於ける戦死を述べ、今こそ亡父の遺志を遂行する心からの歓喜に言及し、師直兄弟の首に自らの首を賭けて必勝を誓って居る。「今生《こんじょう》にて今一度竜顔を拝し奉らんために参内仕りて候ふと申しもあへず、涙を鎧の袖にかけて、義心其の気色に顕れければ、伝奏|未《いまだ》奏せざる先にまづ直衣《ひたたれ》の袖をぞぬらされける。主上則ち南殿の御簾《みす》を高く捲せて玉顔殊に麗《うるわ》しく、諸卒を照臨ありて正行を近く召して、以前両度の戦に勝つことを得て、敵軍に気を屈せしむ。叡慮先づ憤を慰する条、累代の武功返す/″\も神妙なり、大敵今勢を尽して向ふなれば、今度の合戦天下の安否たるべし、…朕汝を以て股肱《ここう》とす。慎で命を全ふすべしと仰せ出されければ、正行頭を地につけて、兎角の勅答に及ばず」[#「」」は底本では「』」]
場所は古来伝称の吉野山である。君臣の義相発して情景|相具《あいそなわ》った歴史の名場面ではないか。かくて共に討死を誓った一行は後醍醐天皇の御廟に詣で、如意輪堂の壁に各姓名を書き連ね、その奥に有名な「かへらじと」の歌を書きつけたとある。だが、これはうそである。普通に常識の有る者が、御陵の傍のお堂に、勝手な落書をして行くなんて、考えられないのである。まして、正行の如き純粋な忠臣に於てをやだ。楠公万能の義公であるから仕方がないとしても、『大日本史』までもが『太平記』の真似をして「同盟の姓氏を如意輪堂の壁に題し、歌を其の後に書して曰く」とやって居るのは、どうかと思うのである。恐らく、名前は寺の過去帳に書いて行ったのであろう。それが今、如意輪堂に行くと、堂々と此の歌を書きつけた扉が残って居る。書きつけた壁でも残って居るのならまだしも、扉になって居るのは二重の間違いである。
然し、少し嘘がある方が、歴史は美しい。児島|高徳《たかのり》の桜の落書と云い、『太平記』にも大衆文芸の要素があるのだ。
四条畷の戦は正月五日に起って居る。此の日の戦闘を『太平記』なんかで考えてみると、先ず師直は本営を野崎附近に敷き、その周囲には騎兵二万、射手五百人を以て固めて居る。
その第二隊は生駒山の南嶺に屯《たむろ》し、大和にある官軍に備えて居る。師泰の遊軍二万は和泉堺を占領し、楠軍出動の要地である東条を、側面から衝かんとして集結中である。要するに賊軍の配備は消極的で、東条を包囲して徐々に半円径を縮めんとするものらしい。
一方官軍は三軍を編成し、正行は弟の正時と共に第一軍を率い、次郎|正儀《まさのり》は東条に留守軍となって居た。吉野朝廷からは北畠親房が老躯を提《ひっさ》げ、和泉に出馬し、堺にある師泰に対抗して居た。亦四条隆資は、河内等の野伏の混成隊を以て、生駒山方面の敵を牽制して居る。『太平記』は正行の奮闘は詳説するくせに、此等の諸軍の動静を閑却して居るが、師泰なんか四条畷戦後、北畠軍に大いに進軍を防遏《ぼうあつ》されて居るのである。
正行直属の兵は凡そ一千人位で、当時大和川附近の沼沢地に陣して居た師直の本営を掩撃す可く突撃隊を組織した。
五日早旦、恐らく午前六時頃だろう。正行は自ら突進隊五百騎を提げて、一直線に北に強行突破を企てて居る。敵の前哨は全く蹂躙《じゅうりん》されて、約半里も北に圧迫されて居る。此の時四条隆資軍に牽制されて居た生駒山方面の敵は、この有様を俯瞰して、四条軍を捨ててどっと山を下り、楠軍の後続部隊に躍りかかった。つまり思わぬ新手の出現で、楠軍の突進隊は後方から切断された訳だ。
此の時正行の手兵僅かに三百。なおも果敢な肉迫戦を続けて行く中、流石の師直の本陣もさっと左右に靡《なび》いた。踴躍して飛び込むと、早くも師直は本営を捨て、北方、北条村に退かんとして居る。恰も此の辺は沼沢地であり、走るに不便だ。追うこと暫くして、其の間半町、将《まさ》に賊将を獲んとした時、賊将|上山《かみやま》六郎左衛門、猝《いつわ》って師直の身代りになって討死した。
その為に大分暇をとった。それでも執拗に追撃の手をゆるめなかったが、突然敵方に強弓の一壮漢が現れた。九州の住人、須々木《すずき》四郎と名乗って雨の如く射かけたから堪らない。
楠次郎は眉間をやられ、正行も左右の膝口三ヶ所、左の眼尻を深く射抜れた。
午後四時頃であろう。野崎の原頭《げんとう》、四条畷には群像の如き三十余騎の姿が、敵軍に遠く囲まれながら茫然として立ちすくんで居る。長蛇を逸した気落ちが、激戦三十余合で疲労し切った身体から、総ての気力を奪い去って居る。
飯盛|颪《おろし》に吹き流される雲が、枯草が、蕭条《しょうじょう》として彼等の網膜に写し出され、捉える事の出来ない絶望感が全身的に灼《や》きついて来たのであろう。
正行は、「嗟《ああ》、我事終れり」と嘆じて、弟正時と相刺し違えて死んだ。相従う十三余士、皆|屠腹《とふく》して殉じた。
正行戦死の報が京都に達すると、北朝では歓呼万歳を唱えて喜んだと云う。可なり嬉しかったんだろう。それだけに此の悲報は南朝にとっては大打撃であった。為に後村上天皇は難を賀名生《あのう》に避けられ、吉野の行宮は師直の放火によって炎上し、南朝の頽勢は既に如何ともし難い。
恐らく正史に於ける正行の活動は数年に過ぎない。亦正成にしても、大体そんなとこである。それで今日までその純忠を謳《うた》われるのであるから、人間としてもまずこれ程立派な父子は、日本史中古今稀である。その正成父子に対する崇拝が反尊氏思想となり、日本一の不忠者のように云われ、六百年の後まで、中島商相にまで祟《たた》るのである。然し、当時正成の策戦を妨害して、正成に湊川で無理な軍をさせ、事を誤った公卿の子孫である、貴族院の子爵議員などが、今更尊氏の攻撃をするのはおかしい。
底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷
※底本は、物を数える際に用いる「ヶ」(区点番号5−86)(「十数ヶ国」)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年11月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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