して「翠楠必ずしも黄花に勝らず」と云わしめたが、活躍の舞台が、近畿でないから、楠公父子の赫々《かくかく》たる事蹟には及ばない。今、四条|畷《なわて》の戦いを説くには、どうしても建武中興が、如何にして崩壊したかを説かねばならない。
 元弘三年六月五日、後醍醐天皇は王政復古の偉業成って、めでたく京都に還幸された。楠正成、名和|長年《ながとし》以下の凱旋《がいせん》諸将を従えられ、『増鏡』に依ると、其の行列は二条富小路の内裏《だいり》から、東寺の門まで絡繹《らくえき》として続いたとある。供奉《ぐぶ》の武将達も、或は河内に、或は|伯耆《ほうき》に、北条氏討滅の為にあらゆる苦悩を味った訳であるから、此の日の主上及び諸将の面上に漂う昂然たる喜色は、想像出来るであろう。
 かくて建武中興の眼目なる天皇親政の理想は、実現されたのである。だがそれと同時に、早くも此の新政府の要人連の間に、逆境時代には見られなかった内部的対立が兆《きざ》していた。つまり武家と公卿《くげ》が各々、自分こそ此の大業の事実上の功労者であると、銘々勝手に考え出して来た為である。
 武家にすれば、実力の伴わぬ公卿達の如何にもとり澄し
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