熱を上げて居ると、正成は「それは菊池(武時)だろう」と言った。滅多に人をほめたことのない新田義貞も、此の一言には非常に感動したと云う(『惟澄文書』)。その謙抑知るべしだ。
戦後の論功行賞にしてもそうだが、尊氏や義貞に比して、正成は寧ろ軽賞である。それでも黙々として忠勤を励む其の誠実さは、勘定高い当時の武士気質の中にあって、燦然《さんぜん》として光っている。
最近公刊されたものであるが『密宝楠公遺訓書』と云う本がある。正成が正行《まさつら》に遺言として与えたものであると云う。その中に、
「予討死する時は天下は必ず尊氏の世となるべし。然りと云へども、汝、必らず義を失ふことなかれ。夫れ諸法は因縁を離れず。君となり臣となること、全く私にあらず。生死禍福は、人情の私曲なるに随《したが》はず。天命歴然として遁《のが》るゝ処なし」とある。少し仏法臭を帯びては居るが、秋霜烈日の如き遺言である。名高い桜井の訣別の際の教訓にしてもそうだが、兎に角|斯《こ》うした一種の忠君的スパルタ教育で、小楠公は鍛えられたのだ。幼少時代の正行を記すものは、『太平記』唯一つである。湊川《みなとがわ》で戦死した父の首級を見て、自殺せんとして母に諫《いさ》められ、其の後は日常の遊戯にまで、朝敵を討ち、尊氏を追う真似ばかりして居たと云う。
思うに彼を取巻く総《すべ》ての雰囲気が、此の少年を、亡父の義挙を継ぐべき情熱へと駆り立てて行ったのであろう。
『吉野拾遺』に、正行が淫乱な師直《もろなお》の手から弁内侍を救ったと云う有名な話がある。
「正行なかりせばいと口惜しからましに、よくこそ計ひつれ」と後村上帝が賞讃し、内侍を正行に賜らんとした。すると正行は、
「とても世に、ながらふべくもあらぬ身の、仮の契をいかで結ばん」
と奏して辞したと云う。
多分に禁欲的な、同時に自己の必然的運命を早くから甘受して居る聡明な青年武将の面影が躍如としている。
正行の活動
延元四年の秋、後醍醐天皇は吉野の南山|行宮《あんぐう》に崩御せられた。北畠親房は常陸関城にあって此の悲報を聞き、「八月の十日あまり六日にや、秋露に侵されさせ給ひて崩《かく》れましましぬと聞えし。寝《ぬ》るが中なる夢の世、今に始めぬ習ひとは知りながら、かず/\目の前なる心地して、老《おい》の涙もかきあへねば筆の跡さへ滞りぬ」と『神皇正統記』の中で慟哭《どうこく》して居る。
正成|夙《つと》に戦死し、続いて北畠|顕家《あきいえ》は和泉に、新田義貞は北陸に陣歿し、今や南朝は落漠として悲風吹き荒《すさ》び、ひたすら、新人物の登場を待って居た。
そこへ現れたのが、楠正行である。彼は近畿に残存する楠党を糾合し、亡父の遺訓に基いてその活動を開始したのである。
元来楠党は山地戦に巧みである。正成が千早城や金剛山に奇勝を博し得たのは、一に彼等の敏捷な山地の戦闘力に依ったのである。従って正成の歿後も、河内、摂津、和泉地方の楠党は山地にかくれ頑強に足利氏に抵抗して居たのである。だからそうした分散的な諸勢力を一括した正行は、今や北朝にとっては一大敵国をなして居るわけだ。
正平二年七月、畿内の官軍は本営を河内東条に移し、菊水の旗の本に近畿の味方を招集し始めた。即ち北畠親房、四条|隆資《たかすけ》等の共同作戦計画が出来たので、本営を此の地に据えて、吉野の軍と相策応したのである。実に正成の本拠であった河内東条と、行宮のある吉野は、官軍の二大作戦根拠地であった。時の京畿《けいき》官軍の中心は言うまでもなく、正行の率いる楠党であった。
八月十日、正行は和泉の和田氏等の軍を以て紀伊に入り、隅田城を急襲して居る。これは東条と吉野との連絡を確実にする為であって、大楠公の赤坂再挙の戦略と全然同一のものである。果然これを機会として京畿の官軍は一時に蜂起し、紀伊熊野諸豪多く官軍に応じ、和泉摂津にも之に響応する者が少くなかった。此の報を得た賊軍側は大いに駭《おどろ》き、細川|顕氏《あきうじ》に軍を率いしめ、八月十九日に大阪天王寺を出発せしめて居るが、彼は泉州に於ける優勢な楠勢にはとても敵せぬと、京都に報告して居る。小康を得て居た当時の京都の人心は為に恟々《きょうきょう》として畏怖動揺したとみえる。洞院|公賢《きみかた》は其の日記に此の仔細を記して居るが、京都の諸寺一時に祈祷の声満つると云う有様であった。
然るに楠軍は一旦兵を河内に還して居る。そして九月九日に八尾城を攻撃し、十七日には河内の藤井寺附近に於て、大いに顕氏の軍を破り、正行は初陣の武名を挙げたのである。
『細々要記』に「京都より細川陸奥守以下数十人河内発向藤井寺に陣す。其夜正行等不意に寄せ来り合戦。京勢敗北死人数を知らず」とあるから、今や正行怖る可しと痛感したようだ。
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