が多い訳だ。
だから誇張されれば、いくらでも悪人になり得る。直木三十五は「尊氏は成功した西郷隆盛である」と評して居るが、人物としては相当なものである。中島商相位に賞められてもいいのであるが、前にも云った如く、人間として純粋無比な楠公父子を相手にしなければならなかった所に、彼の最大の不幸があると思う。恐らく勝利の悲哀を此の男程痛切に味った者は、国史には尠《すくな》いのではなかろうか。
正成と正行
楠氏は元来橘氏の出である。勿論其の由緒に就ては詳しいことは何も分らない。当時、河内の東条川に拠った一小豪族に遇ぎないのだ。
恐らく挙兵前の大楠公は、地方によく有る好学の精神家であり、戦術家であったろうと思う。
足利、新田の如く源家嫡流の名家でもないし、菊池、名和の如く北条氏に対して百年の怨讐《おんしゅう》を含んでいたわけでもない。亦皇室から特別の御恩を戴いたこともないだろう。然るに渺《びょう》たる河内の一郷士正成が敢然立って義旗を翻すに至った動機には、実に純粋なものがあるのだ。学者の研究に依ると、正成は宋学の造詣《ぞうけい》が相当深かった様だ。宋学の根本思想の一つは忠孝説である。つまり学問的に正成は忠義の何物たるかを熟知して居たのだから迷わないのだ。最初から、功利的忠義ではないのだ。尚、宋学は当時後醍醐天皇初め南朝公家の間に盛に行われて居たから、正成は天皇と同系統の学問をして居たことになる。南柯《なんか》の夢で正成を笠置に召し出したのが奉公の最初であるとする、『太平記』の説はさて措《お》き、早くからこの君臣の間に、ある関係があったことは想像出来る。正中の変前に、日野俊基が山伏姿で湯治と称し、大和、河内に赴いたことは、『増鏡』や『太平記』に立派に記《しる》してあるが、恐らくこんな時、楠氏と朝廷とが結ばれたのかも知れない。或はもっと早く、学問上の関係から、天皇と正成は相共鳴する所があったのではあるまいか。
とにかく正成は出発点からして、他の多くの諸将と違って居る。つまり学問上の信念を純粋に実践に依って生かして居るからだ。『太平記』の記者などは、所きらわず正成を褒め倒して居るが、これなども戦記作者を通じて、当時一般の輿望《よぼう》が現われているのである。
或日、武将達が集って、建武中興で一番手柄のあった者は誰だろうと議論があった。各々我田引水の手柄話に
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