た態度が気に食わなかったに違いない。恐らくは、「俺たちに泣きついて来た当時を忘れたのか」と言い度いところであろう。それに一緒に仕事をしてみても、何だか調子が会わない。その平和になって、文事ばかりになると、河原の落書にまで「きつけぬ冠上のきぬ、持もならわぬ笏もちに、大裏交りは珍らしや」と愚弄されるのも癪《しゃく》に触る。その上、素朴な一般武士の頭には、延喜|天暦《てんりゃく》の昔に還らんとする、難しい王政復古の思想など、本当に理解される訳はないのである。
 唯自分達の実力を信ずる彼等は、北条氏を滅ぼしたのは、俺達の力だと確く信じ、莫大なる恩賞を期待して居るのである。
 一方公卿の方にも、此等の粗野ではあるが単純な武家に対して、寛容さを欠いて居たし、之をうまく操縦する方略にも欠けていた。頼朝以来武家に奪われていた政権が、久し振りで自分達の掌中に転がり込んだのであるから、有頂天になるのは無理もないが、余りにも公卿第一の夢の実現に急であった。窮迫した財政の内から、荘厳なる大内裏の造営を企てたりした。其他地方官として赴任した彼等の豪奢な生活は、大いに地方武士の反感を買った。一時の成功にすぐ調子に乗るのは、苦労に慣れない貴族の通性であろう。彼等はしばしば厳然たる存在である武家を無視しようとした。
 北畠親房は『神皇正統記』に於て、武家の恩賞を論じて「天の功を盗みて、おのが功と思へり」と言って居る。歴史家として鋭い史眼を持って居た親房程の人物でも、公家本位の偏見から脱する事が出来なかったのである。
 これでは武家も収らない。
『太平記』の記者は、
「日来《ひごろ》武に誇り、本所《ほんじょ》を無《なみ》する権門高家の武士共いつしか諸庭奉公人と成《なり》、或は軽軒香車の後に走り、或は青侍格勤の前に跪《ひざまず》く。世の盛衰、時の転変、歎ずるに叶はぬ習とは知りながら、今の如くにして公家《こうけ》一統の天下ならば、諸国の地頭御家人は皆奴婢|雑人《ぞうにん》の如くにてあるべし」
と、その当時武士の実状を述べて居る。
 其の上、多くの武士には恩賞上の不満があった。彼等の忠勤は元来、恩賞目当てである。亦朝廷でも、それを予約して味方に引き入れたのが多いのである。云わば約束手形が沢山出されていたのである。
 後醍醐天皇が伯耆船上山に御還幸の時、名和長重は「古より今に至るまで、人々の望む所は名と利の
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