って居る。「今生《こんじょう》にて今一度竜顔を拝し奉らんために参内仕りて候ふと申しもあへず、涙を鎧の袖にかけて、義心其の気色に顕れければ、伝奏|未《いまだ》奏せざる先にまづ直衣《ひたたれ》の袖をぞぬらされける。主上則ち南殿の御簾《みす》を高く捲せて玉顔殊に麗《うるわ》しく、諸卒を照臨ありて正行を近く召して、以前両度の戦に勝つことを得て、敵軍に気を屈せしむ。叡慮先づ憤を慰する条、累代の武功返す/″\も神妙なり、大敵今勢を尽して向ふなれば、今度の合戦天下の安否たるべし、…朕汝を以て股肱《ここう》とす。慎で命を全ふすべしと仰せ出されければ、正行頭を地につけて、兎角の勅答に及ばず」[#「」」は底本では「』」]
 場所は古来伝称の吉野山である。君臣の義相発して情景|相具《あいそなわ》った歴史の名場面ではないか。かくて共に討死を誓った一行は後醍醐天皇の御廟に詣で、如意輪堂の壁に各姓名を書き連ね、その奥に有名な「かへらじと」の歌を書きつけたとある。だが、これはうそである。普通に常識の有る者が、御陵の傍のお堂に、勝手な落書をして行くなんて、考えられないのである。まして、正行の如き純粋な忠臣に於てをやだ。楠公万能の義公であるから仕方がないとしても、『大日本史』までもが『太平記』の真似をして「同盟の姓氏を如意輪堂の壁に題し、歌を其の後に書して曰く」とやって居るのは、どうかと思うのである。恐らく、名前は寺の過去帳に書いて行ったのであろう。それが今、如意輪堂に行くと、堂々と此の歌を書きつけた扉が残って居る。書きつけた壁でも残って居るのならまだしも、扉になって居るのは二重の間違いである。
 然し、少し嘘がある方が、歴史は美しい。児島|高徳《たかのり》の桜の落書と云い、『太平記』にも大衆文芸の要素があるのだ。
 四条畷の戦は正月五日に起って居る。此の日の戦闘を『太平記』なんかで考えてみると、先ず師直は本営を野崎附近に敷き、その周囲には騎兵二万、射手五百人を以て固めて居る。
 その第二隊は生駒山の南嶺に屯《たむろ》し、大和にある官軍に備えて居る。師泰の遊軍二万は和泉堺を占領し、楠軍出動の要地である東条を、側面から衝かんとして集結中である。要するに賊軍の配備は消極的で、東条を包囲して徐々に半円径を縮めんとするものらしい。
 一方官軍は三軍を編成し、正行は弟の正時と共に第一軍を率い、次郎|正儀《まさ
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