いで十一月二十六日、正行は和田助氏を先陣として住吉天王寺附近の敵を邀撃《ようげき》した。此の戦勝は圧倒的であり、したたかにやられた賊軍はすっかり、狼狽したらしい。彼等の記録に、「今夕《こんせき》討死、疵《きず》を蒙る輩数を知らず。以《もって》の外のことなり。之を為すこと如何」と放心の状である。
 此の戦《いくさ》は霜月のことであるから、橋から落ちて流れる敵兵五百余人の姿は、惨澹たるものがあった。正行は是を憫《あわれ》んで彼等を救い上げ、小袖を与えて身を温め、薬を塗って創《きず》を治療せしめたと『太平記』にある。「されば敵ながら其情を感ずる人は、今日より後心を通はせん事を思ひ、其の恩を報ぜんとする人は、軈《やが》て彼の手に属して、後四条畷手の戦に討死をぞしける」いくらか美化して書いたのであろうが、小楠公を飾る絶好の美談であろう。
 周章した足利直義は、遂に十二月、高師直《こうのもろなお》、師泰兄弟を総大将として中国、東海、東山諸道の大軍を率いて発向せしめ、最後の決戦を企てた。
 元来正行は常に寡兵を以て、敵の不意を襲って大勝利を得て居る。尤もそれより外に方法はないのだ。四条畷の戦では、敵は比較にならぬ程の大軍であり、其の精兵は日一日と増加して居る。佐野佐衛門氏綱の軍忠状に依ると、合戦の日の五日の日にまで、敵には続々馳せ参ずる兵があったと云う。此の敵に対し堂々の陣を張る事が不得策であるのは、明瞭であるから、正行は敢て東条に退いて自重せず、速戦速決で得意の奇襲に出でたと解す可きだろう。時|恰《あだか》も鎮西に於ける官軍の活動も活溌であった。正行にすれば、此の際東西相呼応する大共同作戦も胸中に描いて居たらしい。併し何としても敵は十数ヶ国の兵を集めて優勢である。味方は、河内和泉などの寡兵である。南朝恢復の重任を以て任じて居たものの、正行も、到底勝つべき戦とは思っていなかったであろう。

       正行の戦死

 今や楠党は主力を東条に集結し、別軍は河内の暗《くらがり》峠を固めて、敵を待った。此の間、彼が作戦奏上の為め、吉野に参廷したあたりは、正に『太平記』中の圧巻であって、筆者は同情的な美しい筆を自由に振って、悲愴を極めた光景を叙述している。
 即ち、参廷して父の湊川に於ける戦死を述べ、今こそ亡父の遺志を遂行する心からの歓喜に言及し、師直兄弟の首に自らの首を賭けて必勝を誓
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