山崎合戦
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)勿体《もったい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)信長|麾下《きか》

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(例)※[#「くさかんむり/皎のつくり」、第3水準1−90−79]

 [#…]:返り点
 (例)順逆無[#二]二門[#一]

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(例)そも/\
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 明智光秀は、信長の将校中、第一のインテリだった。学問もあり、武道も心得ている。戦術も上手だし、築城術にも通じている。そして、武将としての品位と体面とを保つ事を心がけている。
 それだけに、勿体《もったい》ぶったもっともらしい顔をして居り、偽善家らしくも見えたのであろう。リアリストで、率直を愛する信長は光秀がすまし過ぎているので、「おい! すますない!」と云って時々は肩の一つもつつきたくなるような男であったのであろう。
 神経質で陰気で、条理も心得て居り、信長のやり方を腹の中では、充分批判しながら、しかしすまして、勿体ぶった顔をしている光秀は、信長には何となく、気になる、虫の好かない所があったのだろう。
 と、云ってガッチリしているのだから、役には立つし、軍役や雑役に使ってソツがないので、だんだん重用しながらも、信長としては、ときどきそのアラを探して、やっつけて見たくなるような男であったに違いない。
 信長は、人を褒賞したり抜擢《ばってき》したりする点で、決して物吝《ものお》しみする男ではないが、しかしそのあまりに率直な自信のある行動が自分の知らぬ裡《うち》に、人の恨みを買うように出来ている。浅井長政なと、可なり優遇して娘婿にしたのにも拘わらず、朝倉征伐に行ったときその背後で背《そむ》かれた。例の金ヶ崎の退陣で、さんざんな目に会った。
「浅井が不足を感ずるわけはないが」
 と云って、信長は浅井の反逆の報を容易に信じなかった。しかし、自分が恨まれないつもりで、恨まれている所に、信長の性格的欠陥があったのであろう。
 荒木村重なども、やはりそうである。村重と始めて会った時、壮士なら之を喰らえと云って、剣尖に餅か何かをさして、之をさしつけた。村重平然として、口ずから喰ったと云うが、後で考えればひどい事をする奴だと思ったに違いない。村重なども、相当重用しながら背かれている。松永久秀などもそうである。
 光秀反逆の原因は、丹波の波多野兄弟を、光秀が、命は請け合ったと云って降服帰順させたのを、信長が殺してしまった事。家康が安土に来るとき、光秀に饗応の役をさせた所、あまりに鄭重に過ぎたので信長が怒って途中で止めさせた事。森蘭丸が信長に近江にある亡父の旧領がほしいと哀願したところ、三年待てと云った。ところがその旧領は、現在光秀の所領なので、三年の裡には、自分の位置が危いことを知って、反逆の意を堅めたと云う説。
 その他いろいろあるが、三年待て云々の話は多分嘘だろう。此の頃の信長|麾下《きか》の武将など、信長勢力の発展と共に、その所領は常にいろいろ変更されているのだから、近江で呉れたものを中国辺で呉れるものと思えば、心配することはないのである。とかく蘭丸と光秀とをいろいろからませている話は、若年にして本能寺で死んだ蘭丸の短生涯を小説化するため、大抵は仕組まれたもので、信長が蘭丸に光秀を折檻させたなども多分嘘である。戦国時代の武将が主君自らの心安立ての打擲《ちょうちゃく》なら、或は辛抱するかも知れないが、小姓などを使って殴られて、寸時も辛抱するわけはないと思う。そんな事があれば、その場で抵抗するか、或は切腹したに違いない。
 しかし、光秀が信長に反《そむ》いたのは、平生の鬱憤を晴すと同時に、あわよくば天下を取ろうとする大志が、あったに違いない。秀吉が、信長の横死を機会に信長の子孫を立てずに自分で天下を取ったのを、光秀はもっと積極的に、自分の私憤を晴すと同時に、天下を志したに違いない。「三日天下」など云う言葉が残っている以上、当時天下の人心は、光秀のそうした大志を知っていたに違いない。京師《けいし》の地子銭を免除したり相当政治的なことをやった以上、信長を殺せば後は野となれ山となれ的な棄鉢でやった事ではない。
 例の愛宕《あたご》山の連歌で、
[#天から4字下げ]ときは今|天《あま》が下知る五月《さつき》かな
 と云う発句を見ても、天下を狙う大志が躍動しているわけである。老獪《ろうかい》なる紹巴《しょうは》は、その時気が付いていたと見え、光秀の敗軍と知るや愛宕山に馳《か》けつけて、知る[#「知る」に傍点]と云う字を消して、その上に再び知ると、かいて置いた。そして、秀吉に訊問せられた時、「天が下成る」であったのを自分に反感を持つものが、知る[#「知る」に傍点]に訂正したのであると云った。知るとあるのを消して再び知るとかいた所に紹巴の頭のよさがある。
 とにかく光秀の肚《はら》は、反逆五分、大志五分であったのであろう。天下を取ることも、必ずしも空想ではなかった。勝家は北国に、秀吉は中国に、滝川は関東にめいめい敵を控えているのだし、秀吉なども光秀の眼からは、現在我々の考えているような英雄に見えるわけはなく、自分と同輩もしくは以下に見えたであろう。それに、毛利と云う大敵を前に控えて、簡単に攻め上って来るとは思えなかったのだろう。実際柴田などは、グズグズしてなかなかやって来なかった。
 秀吉や柴田が、グズグズしている裡に、畿内を経営して、根拠を築き、毛利と誼《よしみ》を通じて秀吉を挾撃して、之を倒せば天下の勢い我に帰すべしと、光秀は思ったに相違なく、そう思ったことをあまり無理だと云えないところもある。その証拠に、堺にいた家康など泡を喰って本国へ逃げ帰っている。これは、光秀の成功が可能に見えた証拠である。
 その上、光秀は女婿の細川|忠興《ただおき》と親友の筒井順慶など、きっと味方してくれると思ったに違いない。光秀は、順慶の世話は随分焼いていたのだから、そう思うのも当然であった。
 また主殺しなどと徳川時代の思想からは大逆と見られているが、戦国時代に主君を殺したものは松永久秀、斎藤道三、宇喜多直家以下沢山いるし、親兄第も[#「親兄第も」はママ]、邪魔になると殺しかねない時代であるから、それが名分上の非常な損になるとは思わなかったかも知れない。
 とにかく光秀は、私憤を晴すと共に、天下を計ったに違いなく、私憤だけなら、光秀ほどの利口な武将が、どうにか理窟をつけて、辛抱出来ない筈はないのである。
 光秀の本能寺襲撃は、物の見事に成功した。信忠まで、二条城で父に殉じた。太田錦城と云う漢学者は慷慨《こうがい》の士だが、信忠がこんなときに逃げないのは無智の耻を耻じているので犬死だと云っている。義経が、屋島で弱弓を耻じたのも、無智の耻で、武将たるものはそんな事を耻ずるに当らないと云う議論である。
 秀吉は、中国に在って、信長の死を聞いて相当あわてた。その第一報は、黒田如水の所へ京都の長谷川|宗仁《そうじん》と云うものから飛脚が来たのである。秀吉は、外に洩れるといけないからその飛脚を殺せと云った。如水は、手柄こそあれ殺すべきものにあらずと云って、秀吉に内緒でかくまったと云うが、寛仁な秀吉が、そんな事を云い出すのだから、可なりあわてていたに違いない。
 むろん、毛利には兇報を秘密にして、和を講じた。和成った後、兇報を知らして、かくの次第だが追撃をするかどうかと訊いた。毛利の方でも、一寸《ちょっと》迷ったが例の小早川|隆景《たかかげ》、秀吉の大量を知って、此上戦うの不利を説いたので、秀吉後顧の憂いなくして京師に走《は》せ上ることが出来た。その上毛利の旗さしものを借りて、毛利の援兵があるように見せかけることにした。当時秀吉の居城は、姫路である。秀吉麾下の者にとっては、故郷である。だが秀吉は姫路を通るとき、家へ立ち寄るものあらば斬るべしと厳命した。秀吉の軍兵が光秀の予期よりも早く淀川を圧して攻め上って来たのも故あるかなである。本能寺の兇変が、天正十年六月二日で、山崎合戦は同じく十三日である。秀吉の用軍の神速知るべしである。
 備中の陣に、兇報が来たとき、黒田如水は秀吉に悔みを云うかわりに、するすると傍《そば》へ寄って、その膝を叩き、
「御運の開けさせ給う時節到来せり、よくせさせ給え!」
 と云った。秀吉が、心の底で思っていることを、あまり露骨に云ったので秀吉は、生涯如水を信頼しながらも、一味|憚《はばか》るところがあったと云われている。
 秀吉だって、信長の死はわが開運のチャンスと思ったに違いない。光秀は、私憤を利用して、無理にそう云うチャンスを作ろうとし、秀吉は、偶然そう云うチャンスが到来したので、信長の死をチャンスだと考える点では、同じであっただろう。
 だから、『太閤記』の作者は、
「天下順に帰するや山崎の一戦なり。天下逆に帰するや山崎の一戦なり。順と云ふも至順にあらず、逆と云ふも至逆にあらず、順逆ともに似て非なるものなれども、これを明らかにする鑑《かがみ》なく、これを察《さと》らする識《さとし》なく、英雄一個の心智を以て、四海万姓を弄《もてあそ》ぶ事、そも/\天の意なるや」となかなかしゃれた事を云っている。
 秀吉の軍勢は、二万六千余で、先陣はわが戦国時代のクリスチャン・ゼネラル高山右近であった。第二陣は中川瀬兵衛、第三陣は池田|勝入斎《しょうにゅうさい》だ。
 勝入斎は、信長とは乳《ち》兄弟なので、その弔合戦に先陣を望んだが、高槻の城主高山右近は、「わが居城は最も京に近い。京近き合戦に、わが鴉《からす》の旗見えねば、高山いかにせしかと云われん」とて、先陣を望んで止まないので、到頭その居城の順序に依って、高槻の高山、茨木の中川、花隈《はなくま》の池田の順になった。
 光秀の方は、光秀麾下の雄将斎藤|内蔵助《くらのすけ》が中央軍の先頭で明智十郎左衛門、柴田源左衛門等之につき、四千人。左備《ひだりぞなえ》は津田与三郎、志水嘉兵衛など三千五百人。右備は伊勢与三郎、藤田伝五郎等二千人である。中央軍の第二陣は、松田太郎左衛門で、その後に光秀旗本五千余騎を従えて、進んだ。
 此の中で、左備の津田与三郎は、尼ヶ崎の城主で信長の甥である七郎兵衛信澄の家老だった。
 この信澄は、信長の弟信行の子で、信行は信長に殺されたのだから、信澄に取って信長は伯父ではあるが父の仇《あだ》である。その上、信澄の妻は、光秀の娘である。だから、織田の一族ではあるが、本能寺の兇変を聞いて躍り上って悦《よろこ》び、光秀の為に中国から攻め上る秀吉を防ぐつもりでいたが、あまりに早まりすぎて、大阪にいた丹羽五郎左衛門のために殺されてしまった。
 織田の一族である信澄が健在で光秀の方に加っていたら、名分の上からも、いくらかごまかしがつくし、殊に此の信澄は軽捷《けいしょう》無類の武術があまりうまくなり過ぎて、武術の師匠を冷遇したので、その連中が丹羽方へ内通したと云われるだけに、生きていたら山崎合戦に於ても、さぞかし目ざましい働きをしたに違いない。一国の城主で、織田の一族であるから、光秀に取っては無二の味方になったに違いないのである。信澄が倒れた後でさえ、家老の津田が軍勢を率いて加勢に来ているほどである。
『太閣記』などによると、戦場と時刻を秀吉が光秀に通知したなどあり、芝居の『太閣記』十段目の「互の勝負は云々」など、これから出ているであらうが、そんな馬鹿なことはない。
 が、光秀が山崎の隘路を扼《やく》して秀吉の大軍を阻《はば》まんとしたのは戦略上、当然の処置であり、秀吉の方も亦山崎に於ての遭遇戦を予期していたのであろう。
 山崎で戦うとすれば、大切な要地は天王山である。光秀が之を取れば、随時に秀吉の左翼から、拳下《こぶしさが》りに弓鉄砲を打ち放して切ってかかることが出来るし、秀吉が之を取れば逆
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