に光秀軍の右翼を脅威することが出来るのである。所謂《いわゆる》兵家の争地である。
 だから、光秀は十三日の早暁中央軍第二陣の大将松田太郎左衛門に二千人の兵を附して、その占領を命じた。
 秀吉も同じく、十三日の早暁堀尾茂助を先ずやり、それでも心もとなく思って、更に堀久太郎をやっている。人数は堀尾、堀二人で四千人である。光秀の方は、丑《うし》の中刻で、秀吉の方は丑の上刻であったと云う。丑の上刻と云えば二時半で、中刻は三時だから、三十分違いである。
 が、光秀の方が早かったと云う説もある。正確な時計がないのだから、三十分位はどちらが早かったか分るものでない。然し、出立の時刻よりも、天王山に到る道程の関係や、登り道の関係も考えねばならぬ。とにかく、秀吉軍の方が、先きへ天王山の頂上を占領して、後から来る松田政近の軍勢を、追い落した。山崎合戦の勝敗の岐路は、天王山への登山競争にあったわけである。光秀もその戦略眼に於ては、一歩も秀吉に譲らなかったのであるが、天王山の地理などには、光秀の方が、その所領の関係上暗かったかも知れないのである。
 光秀は、十三日午前中、全軍を円明寺|川畔《かはん》に展開した。秀吉軍が、展開するのは、ずうっと遅れた。なぜ、光秀が展開を終った隊勢で、まだ隊勢の整わざる前の秀吉軍を打たなかったか、それが一つの敗因であると戦術家は批評している。
 戦争開始前、高山右近の家来の甘利八郎太夫と云う男が、牀几に依って戦機の熟するのを待っている右近の前に出て、
「私は、只今どちらにしていいか分らない事があるから、御判断を願いたい。お殿様は、私を無能の人間として、禄など少しも下さっていない。その私が、ここで手柄を現すと、殿様の不明を現わすことになって不忠になる。と云って、臆病な振舞をすると、父祖の名を汚して不孝になる。いずれに致しましょうか」と、三度までくり返して訊いた。皮肉な奴が居たものである。右近心中に怒り、斬り捨てんと思ったが、大事の前の小事であり、かつは年々のクリスチャンであるし、だまっていると、「不忠の名を取るとも、累代の武名を汚すわけには行かぬ」と云って、明智勢に切り入って、一番槍、一番首、二番首の功名を一人でさらってしまった。
 戦いは、午後に入って始まった。高山右近は、明智の中央軍斎藤内蔵介に向ったが、相手は明智方第一の剛将なので高山勢さんざんに打ちまかされ、やっと三七信孝、丹羽長秀の応援に依って漸《ようや》く盛り返すことが出来た。
 第二陣の中川瀬兵衛清秀は、光秀軍の右翼伊勢与三郎等の軍に向った。中川は、元荒木村重の被官で、以前此の山崎附近の糠塚《ぬかつか》で、和田伊賀守と云う剛将を単身で打ち取った剛の者で、勝手知ったる戦場ではあるし、目ざましい奮戦をつづけて、早くも勝機を作ったのである。光秀は、之より先天王山が、気になったので、並河|掃部《かもん》、溝尾勝兵衛の二人を応授にやったが、既に松田の軍破れ松田は討死して、天王山は全く秀吉の手中に落ちてしまっていた。
 秀吉、生駒|親正《ちかまさ》、木村|隼人《はやと》を天王山方面に増援して、横槍についてかからせた。こうなると、光秀の軍は絶えず右翼を脅威せらるることになり、中央軍の奮戦に拘わらず、敗色既に掩《おお》いがたきものがあった。
 それと同時に、左翼は淀川を頼みにして、配備が手薄であったところ、秀吉の第三軍たる池田勝入斎が川沿いの歩立《かちだち》の小路を発見し、潜行して、光秀軍の左翼たる津田与三郎等の陣に切ってかかった。
 光秀が、天王山に関心しながら、淀川の方を気にしなかった事も亦、一つの敗因でなかったかと云われている。
 中央軍の斎藤利三父子を初め、左右両翼とも、明智方の将士は、よく奮戦した。関ヶ原当時の西軍などとは比べものにならない。光秀がいかに人士を得ていたかを知るに充分である。
 しかし、天王山が秀吉軍に帰し、そのほうから横撃されては、万事すでに去ったと云うべく、それと同時に洞《ほら》ヶ峠にいた筒井順慶の大軍が裏切りして淀川を渡り、光秀の背後に襲いかかって来た。
 順慶は光秀の世話になって居り、無二の親友である。だから順慶自身は、光秀の勧誘に、心うごいたが、家老杉倉右近、島左近の二人が主人を諫《いさ》めて出陣せしめず、ただ人数だけを山崎の対岸なる八幡の洞ヶ峠に出した。
 そこで、戦争を見物していて、勝った方へ味方しようと云うのである。今から考えれば、秀吉が勝つのだから、秀吉の方へハッキリ附いていた方が、『洞ヶ峠』など云う醜名を後世にまで残さないでよかったのであろうが、順慶の立場は可なり困難な立場であったし、秀吉光秀の勝敗も、後世の我々が考えるように簡単に見通しのつくものではなかったに違いない。
 後になって、たった四万石の石田三成に二万石で召し抱えられたほどの豪傑、島左近にだって分らなかったのである。
 とにかく、後世からはその首鼠両端の態度を嘲笑されているが、しかし当時は明智の無二の親友でありながら、家を全うすることが出来たのは、松倉、島両家老の処置宜しきを得たためであると云われていた。
 筒井までが、裏切ったのでは、万事休してしまった。筒井の二心を見ぬいて、明智方でも斎藤大八郎、柴田源左衛門等が備えていたが、こうなっては一たまりもなかった。
 先陣の斎藤内蔵介は旗本に合するを得ず、戦場を落ちたが明智方の勇士多く討死した。
 光秀は、一旦勝竜寺城に入り、夜の十二時頃に桂川を渡り深草から小栗栖《おぐるす》にかかって、土民の手にかかった。物騒千万な世の中で、落人《おちうど》となったが最後、誰に殺されても文句がないのであるし、また所在|匪賊《ひぞく》のような連中がいて、戦争があるとすぐ落人狩をやり出すのである。本能寺の変を聴いて堺から伊賀を通って、三河へ帰った家康だって土民のために危かったし、現に家康と同行していた甲斐の旧臣穴山梅雪は土民のためにやられている。
 山崎の合戦の時、近隣の連中が陣見舞に酒肴をもたせて光秀の陣に来た。その中に京都の饅頭屋《まんじゅうや》塩瀬三左衛門と云うものも伺候したが、光秀が献上の粽《ちまき》を、笹をとらずに食ったのでびっくりし、これでは、戦争は敗だと思ったと云う。「※[#「くさかんむり/皎のつくり」、第3水準1−90−79]粽《こうそう》手に在り」云々の詩がある所以だ。塩瀬と云う菓子屋は、その頃からあったものであるらしい。だが砂糖はやっと当時伝来したものだから、現在のようなおいしい饅頭があったかどうか疑問である。その頃、砂糖入りの菓子を南蛮菓子と云った。今の洋菓子と云うのと同じである。
 光秀は、神経質な武将だけに、小胆であろうから、そんな事があったのかも知れない。死ぬ時辞世がある。
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|順逆無[#二]二門[#一]《じゅんぎゃくにもんなく》
五十五年夢《ごじゅうごねんのゆめ》
|大道徹[#二]心源[#一]《たいどうしんげんにてっす》
|覚来帰[#二]一心[#一]《さめきたればいっしんにきす》
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 多分後世の仮作であろうが、光秀も死ぬまで順逆を気にしていただろう。戦争が済んだ時、三七信孝は中川瀬兵衛に近寄って、その戦功をねぎらったが、秀吉は輿《こし》に乗っていながら、「瀬兵衛骨折骨折」と云ったので中川は「あいつ、はや天下を取った気でいやがる」とつぶやいたと云う。
 とにかく、光秀としては宿怨を晴らし、たった十一日間にしろ京師に号令したのだから、石田三成に比べると、そう口惜しくはなかったに違いない。



底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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