細川|忠興《ただおき》と親友の筒井順慶など、きっと味方してくれると思ったに違いない。光秀は、順慶の世話は随分焼いていたのだから、そう思うのも当然であった。
また主殺しなどと徳川時代の思想からは大逆と見られているが、戦国時代に主君を殺したものは松永久秀、斎藤道三、宇喜多直家以下沢山いるし、親兄第も[#「親兄第も」はママ]、邪魔になると殺しかねない時代であるから、それが名分上の非常な損になるとは思わなかったかも知れない。
とにかく光秀は、私憤を晴すと共に、天下を計ったに違いなく、私憤だけなら、光秀ほどの利口な武将が、どうにか理窟をつけて、辛抱出来ない筈はないのである。
光秀の本能寺襲撃は、物の見事に成功した。信忠まで、二条城で父に殉じた。太田錦城と云う漢学者は慷慨《こうがい》の士だが、信忠がこんなときに逃げないのは無智の耻を耻じているので犬死だと云っている。義経が、屋島で弱弓を耻じたのも、無智の耻で、武将たるものはそんな事を耻ずるに当らないと云う議論である。
秀吉は、中国に在って、信長の死を聞いて相当あわてた。その第一報は、黒田如水の所へ京都の長谷川|宗仁《そうじん》と云うものから
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