、一つの敗因でなかったかと云われている。
中央軍の斎藤利三父子を初め、左右両翼とも、明智方の将士は、よく奮戦した。関ヶ原当時の西軍などとは比べものにならない。光秀がいかに人士を得ていたかを知るに充分である。
しかし、天王山が秀吉軍に帰し、そのほうから横撃されては、万事すでに去ったと云うべく、それと同時に洞《ほら》ヶ峠にいた筒井順慶の大軍が裏切りして淀川を渡り、光秀の背後に襲いかかって来た。
順慶は光秀の世話になって居り、無二の親友である。だから順慶自身は、光秀の勧誘に、心うごいたが、家老杉倉右近、島左近の二人が主人を諫《いさ》めて出陣せしめず、ただ人数だけを山崎の対岸なる八幡の洞ヶ峠に出した。
そこで、戦争を見物していて、勝った方へ味方しようと云うのである。今から考えれば、秀吉が勝つのだから、秀吉の方へハッキリ附いていた方が、『洞ヶ峠』など云う醜名を後世にまで残さないでよかったのであろうが、順慶の立場は可なり困難な立場であったし、秀吉光秀の勝敗も、後世の我々が考えるように簡単に見通しのつくものではなかったに違いない。
後になって、たった四万石の石田三成に二万石で召し抱えられた
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