勲章を貰う話
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蘇《よみがえ》ってくる

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)銘々|蘇《よみがえ》ってきた

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(例)剣※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《けんは》
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          一

 春が来た。欧州戦争第二年目の春が来た。すべてのものを破壊し、多くの人類を殺傷している戦争も、春が蘇《よみがえ》ってくるのだけは、どうすることもできなかった。
 戦争の荒し壊す力よりも、もっと大きい力が、砲弾に砕《くだ》かれた塹壕《ざんごう》の、ベトンとベトンの割れ目から緑の芳草《ほうそう》となって萌え始めた。砲弾に頂《いただき》を削り去られた樺《かば》の木にも、下枝《しずえ》いっぱいに瑞々《みずみず》しい若芽が、芽ぐんできた。
 冬の間、塹壕の戦士たちの退屈な心を腐らせた陰鬱な空の色が、日に日に快活な薄緑の色に変っていった。
 戦線に近いプルコウにある野戦病院の患者たちも、銘々|蘇《よみがえ》ってきた春を、心のうちから貪り味わった。彼らが戦場における陰惨な苦しい過去を考えると、ガラス窓を通して、病室のうちに漂うている平和な春の光が、何物よりも貴く思われるのであった。
 ワルシャワから、コヴノ要塞にかけての戦場で、有名を轟《とどろ》かした士官候補生イワノウィッチの負傷も、もうまったく癒《い》えていた。
 彼は、露暦三月十三日の朝、いつよりも早く目をさました。のどかな春の朝であった。病院の廊下に吊るされた籠の中の駒鳥は、朝早くから鳴きしきって、負傷兵たちの夢を破っていた。イワノウィッチは、寝台の上に起き直ると、両手を思い切り広げて大きい伸びをしようとした。が、右の手だけは彼の神経の命ずる通りに動いたが、左の方には、彼の神経中枢の命令を奉ずる何物も残っていなかった。彼は苦笑した。彼にはまだ、左の手が存在するような感覚だけが残っていた。そして、その感覚のために度々|欺《あざむ》かれた。が、この朝だけは、自分が不具になったという悔恨は、少しも残っていなかった。
 彼は二、三日前、総司令部からこの日ニコライ太公が、戦線からの帰途この病院を訪うて、サン・ジョルジェ十字勲章を彼に与えるという通知を受けていた。その勲章には三百ルーブルの年金が付いていた。彼はこの名誉と年金とをもって、元の大学生生活にかえろうと思っていた。そして静かな、煩《わずら》わされない生活を楽しもうと思っていた。
 サン・ジョルジェ十字勲章に、彼は十分に相当していた。「勇士イワノウィッチの五つの英雄的行動」といったような話は、戦場美談として、広く流布《るふ》されていた。この病院に来る特志看護婦や、いろいろな団体の慰問使は、有名な勇士イワノウィッチに握手を求めることを忘れなかった。
 イワノウィッチは、今朝、なんのわだかまりもない晴々とした心持であった。彼は、廊下に吊るされた籠の中の、駒鳥の快い鳴き声を寝台の上でききながら、太公が彼に勲章をくれる晴れがましい情景《シーン》を想像してみた。
 イワノウィッチは、まったく得意であった。彼はのびやかな心持で寝台から下りると、真新しい軍服に着替えた。彼は久し振りに軍服を着たのであった。左の腕がないために、服の袖がだらりとしているのが淋しかった。が、それは、彼ののうのうとした心持を曇らすには足りなかった。彼は、病院の廊下を、大股でゆっくりと歩き始めた。ガラス戸越しに見える芝生には、朝の陽光がいっぱいに溢れていた。彼はこの時、ふと自分の所属連隊の副官のダシコフが、自分に勲章をくれるといい出したことを思い出した。が、本当は、ダシコフがくれたのではない、彼が自分の勲功で堂々と貰うのである。が、イワノウィッチは、心のうちで「俺に勲章をくれたのは、やはり副官のダシコフだ」と思った。どうしてダシコフが、彼に勲章を与えたか。それにはこんな話がある。

          二

 大学生から、従軍を志願して、士官候補生に採用されたイワノウィッチが、ワルシャワに到着したのは一九一五年の夏の初めであった。
 もう、その頃は、ワルシャワを去る五十マイルぐらいのところで、露独の重砲が、すさまじい格闘を続けていた。ワルシャワの街の大きい建物のガラス窓が、砲弾の響きで気味悪く震えることなどがよくあった。
 が、ワルシャワの市街は、どんなであったろう! イワノウィッチは、最初ワルシャワを、煤煙と埃《ほこり》と軍隊との街だと思っていた。ところが、停車場から市中へ足を踏み入れると、華やかな初夏の情景《シーン》を備えた街々が、一歩一歩眼前に展開されていくのであった。軽やかな夏の新装を身に着けた貴婦人たちの群が、ウヤズドフスキェの大通りを、いくつも流れていった。彼らは皆鮮やかな色彩のパラソルをかざしていたので、強い太陽の光を浴びた街は、万華鏡を覗いたような絢爛《けんらん》な光景を呈していたのであった。
 戦争はどこにあるだろうと、イワノウィッチは思った。街路樹の陰の野天のカフェーにも、客がいっぱいに溢れて、アイスコーヒーなどを飲んでいた。
 イワノウィッチをおどろかしたことは、まだたくさんあった。すべての劇場も活動写真《キネマ》も、興行を続けていた。ことに喜歌劇をやる小劇場には士官や兵卒が群集して、若い歌手の女たちに喝采を浴せているのであった。
 ただ唯一の戦争の印としては、ポーランド王スタニスワフの古王宮たるヴィヌラフ宮殿の上に、一|旒《りゅう》の赤十字旗が、初夏の風に翻《ひるがえ》っているばかりであった。
 イワノウィッチは、いよいよ出征と決まった時、心のうちで、すべての歓楽に別れを告げていた。その上、愛国的の興奮から従軍を志願しただけあって、最初は独軍の砲声を聞きながら、くだらない歌劇などに現《うつつ》を抜かしている士官や兵卒に、かなり大きい反感を持たずにはいられなかった。が、イワノウィッチは、若い青年であった。ことに彼の血には歓楽に脆《もろ》い南ロシア人の血が流れていた。
 イワノウィッチが編入された、ワルシャワの守備の連隊が駐屯していたワジェンキ王宮の近所には、パガテラという有名な遊園地があった。そこには、喜歌劇や活動の小屋が、いくつもいくつも並んでいた。連隊の士官たちは、毎晩九時頃から、昼間の練兵の疲れをまったく忘れたかのように、銘々、緑色の新しい軍服に着替えて、髭《ひげ》をていねいに手入れして、小劇場の桟敷《さじき》に顔を並べていた。彼らは銘々花束や花輪を用意して、気に入った歌手の女に贈るのであった。イワノウィッチも、こうした歓楽にすぐ馴れてしまった。
 イワノウィッチの注意を最初にひいた女は、リザベッタ・キリローナという歌手であった。彼女は一座のスターではなかった。が、その娘らしい表情と潤《うるお》いのある肉声とは、容易にイワノウィッチの心に食い入ってしまった。彼女の丸い顔立とやや黄味のかかった瞳とは、彼女のポーランド人であることを明らかに説明していた。彼女は、日陰に咲く淋しい草花のように、自分の周囲に、淋しい陰影を持っていた。やや感傷的なイワノウィッチは、彼女のこうした淋しさにかえって心をひかれるのであった。
 彼は、毎夜必ずリザベッタの出演する白鳥座の桟敷に、身を置いた。そして、彼女があまり目立たぬ役を演じ終ると、決まって花束を贈ったのであった。
 イワノウィッチがその女を獲るのは、ほんの僅かな労力であった。二十日も経たぬ頃には、彼は彼女と一緒に、ワルシャワの街の夜ふけに、馬車を走らせている自分を見出したのである。が、イワノウィッチは、自分の恋に恐ろしい競争者のあることにすぐ気がついたのである。幕が降りてから、歌手たちが銘々贈られた花束を手にして再び舞台に現れる時、リザベッタは、必ず二つの花束を持っていた。一つはイワノウィッチが贈ったものであったが、他の一つは何人《なんびと》によって贈られたのか分からなかった。人気の立たない、淋しいリザベッタは、二つ以上の花束を持っていることは、はなはだ希であったが、二つを欠いたことはなかった。イワノウィッチは、花束の代りに上等な花輪を贈ってみた。すると、リザベッタはまた二つの花輪を持って舞台に現れた。イワノウィッチが大きい花籠を贈ると、隠れた敵手《ライバル》は、またすぐ大きい花籠をリザベッタに贈って、その挑戦に応ずるのであった。
 イワノウィッチは、相手の名をリザベッタにきくと、彼女は微笑をもらしながら、なんとも答えなかった。
 が、間もなく、イワノウィッチの敵手《ライバル》を探る瞳に映じたのは、いつもこの小屋でよく顔を合わす同じ連隊の一等大尉のダシコフの姿であった。ダシコフは連隊副官を務めている大きい図体の男であった。この男は毎晩必ず一人で、桟敷に姿を見せていた。そしてきっと、花束を一つだけは用意しているのであった。
 イワノウィッチは、本能的にこの男を、自分の競争者だと感じていた。イワノウィッチの感じは、彼をまったく欺《あざむ》かなかった。ある晩、彼は馬車を雇って、リザベッタが楽屋から出るのを迎えていた。
 彼は、華やかな恋の欣《よろこ》びを感じながら、小柄なリザベッタを抱えるようにして、馬車に乗せて馭者《ぎょしや》に合図の手振りをした。その時であった。彼は楽屋口の閉場《はね》時の、混乱した群衆の中に、連隊副官のダシコフ大尉の蒼白な頬と、燃ゆるような二つの瞳とを見出したのである。イワノウィッチは怖ろしいものを見たように、顔を背《そむ》けた。そして馭者に命じて、速力を増さしめた。
 その次の朝、イワノウィッチは、ワジェンキ宮殿の広場で、不意にダシコフ大尉と会った。彼は妙な圧迫を感じて足を止めて挙手の礼をした。するとダシコフは、悪意のある微笑を湛《たた》えながら、近寄ってイワノウィッチの肩を軽く叩きながら、
「君は第一大隊の士官候補生《ユンケル》だったね。わしは連隊副官のダシコフだ。いいか! 連隊副官のダシコフだよ」といいながら、さらに皮肉な笑い方をした。
 イワノウィッチは、この男が恋の相手たる自分を、階級の力をもって圧迫しようとする悪意を、ありありと感じたのである。彼は反抗の心が、胸に溢れるのを感じた。するとダシコフは再びイワノウィッチの肩を叩きながら、
「またゆっくり会おう。白鳥座以外のところでね」といいながら、脅威的な悪意のある笑みを残して去った。

          三

 七月が、だんだん終りに近づいた。ワルシャワの市街を照す日光は、日に日に熱度を加えてきた。それと同時にワルシャワを半円に取り巻いている独軍の戦線が、時々刻々縮まっていった。
 イワノウィッチには、毎晩夜の来るのが待たれる。昼間は、営舎の内部がひどい熱気に蒸されて、大きいストーブのようになっていた。そして、ワルシャワ名物の蝿が、天井にも、床にも、壁にも、いっぱいに止まって、それが不断に動いて、壁や天井そのものまでが動いているように見えた。
 が、夜になるとワジェンキ宮殿の泉水には冷たい微風が吹き起った。月の光が、ワルシャワの街を青い潮水の水底にあるように思わせた。その中を霧が煙のように絶えず上って、霧の晴間には、月の光にぬれた樹木の青葉が、きらきらと輝いているのが見えた。そんな宵、彼は必ずリザベッタの家を訪うた。
 彼女は、バガテラからあまり遠くない、ブラウスキ街十二番地にある家に住んでいた。彼女は大きい建物の三階にある部屋を三つばかり占めていて、ローナという年寄の婦人と慎ましく住んでいた。彼女は劇場に出る前の短い時間を、欣《よろこ》んでイワノウィッチをもてなした。
 彼はリザベッタの室にいる時、折々老婆がダシコフの来たことを告げに来ることがあった。が、そんな時リザベッタは、ちょっとイワノウィッチに気兼ねをしながら、
「病気だといっておくれ」と断った。そうした後などは、イワノウィッチは、ことさらに自分の勝利
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