者たる境遇を、勝ち誇るような気持がした。
そうこうするうちに、七月は進んだ。ワルシャワの左翼を擁護しているルブリンの要塞が危険だという報道が伝わった。さすがに、その頃からワルシャワの街には、負傷兵がみち溢れた。負傷兵を載せた無蓋の馬車が、ワルシャワの大通りに続いていた。その中でも、毒ガスにやられた病兵がことに多かった。彼らは紫がかった顔色をして、頻《しき》りに咳をした。
ドイツのタウベ飛行機が、夏の空高く、黒い十字を描いた翼を閃《きらめか》しながら、ワルシャワの街の上を飛び回ることがあった。が、ワルシャワの貴婦人たちはパラソルを傾《かし》げながら、また平然と空を仰ぎ見た。夜は芝居も活動写真《キネマ》も、あいかわらず興行を続けていた。むろんイワノウィッチとリザベッタの会合も続いていたのであった。
ところが七月の終りに近づいた頃、イワノウィッチはある日、連隊副官のダシコフから呼びつけられたのである。
彼は、その後もダシコフ大尉と二、三度会ったことがある。そのたびに、この一等大尉は妙な苦笑いを頬に浮べているのを常とした。
この日、ダシコフ大尉はイワノウィッチの顔を見ると、いつものようにちょっと苦笑いをしたが、彼はすぐ椅子に反り返りながら、
「士官候補生《ユンケル》イワノウィッチ!」と命令口調をもって、いい放った。「お前は、ブラウスキ街の十二番地を知っているだろう。いいか、わしは今、上官として、お前に命令を発するのだ」
イワノウィッチは、こう聞いた時、挑戦の手袋を投げつけられたように、きっ[#「きっ」に傍点]となった。
ブラウスキ街の十二番地というのは、彼の新しい情人であるリザベッタの住んでいる建物の所在地に相違なかった。
「わしはお前の上官だよ。いいかイワノウィッチ! わしのいうことは命令だよ。いいか! 注意をしてききなさい。お前は、今後ブラウスキ街十二番地に足踏みをしてはいけないんだ。いいか、あそこにある、木造の階段を昇ってはならないんだよ。いいか分かったか」
この命令をきいていたイワノウィッチの顔は、充血したと思う間もなく直ちに蒼白になってしまった。そして彼の唇が痙攣的《けいれんてき》に震え始めた。
が、ダシコフ大尉はこういってしまうと、今までのことがまるきり冗談であったかのように、笑い出してしまった。彼は急に言葉を和らげて、
「が、わしは、只では命令はしないよ。この命令には、ちゃんと賞罰が付いているのだ。イワノウィッチ君、お前はサン・ジョルジェ十字勲章を欲しくはないか。年金の付いたやつだよ。一年に三百ルーブルの年金の付いたやつだよ。わしはこの連隊の副官だ。いいか、勲章の申請は、わしの思う通りになるのだ。どうだイワノウィッチ君! 安っぽい歌劇の歌手よりも、十字勲章の方を選んだらどんなものだ」こういいながら、ダシコフは、ふたたび哄笑したのである。
が、若いイワノウィッチには、恐ろしい激動があったばかりである。彼には、まだ正義の心が、何物にも紛《まぎ》らされないほど、明らかに残っていた。ことに、彼から情人リザベッタを、権力と手段とで奪って行こうとするダシコフの態度に対する憎悪が、旺然《おうぜん》と湧いてくるのを制することができなかった。
「どうだ、イワノウィッチ君!」
ダシコフは、返事を催促した。イワノウィッチは自分の激怒を放つべき機会を得たように思った。右の手が剣※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《けんは》を探ろうとする動き方をするのを、ようやく制しながら、
「豚《ぶた》め」と吐きつけるようにいうと、そのままドアを力まかせに開いて、外へ出た。ダシコフは彼の後姿を見ながら、
「それじゃ罰の方が欲しいのだな」と後から、捨台詞《すてぜりふ》を投げた。
四
ルブリンが陥ちたという報道が来た。ドイツの飛行機タウベが、ワルシャワの上空を見舞う日が多くなった。そのうちの一機が、夏の日に、輝いて流れるヴィスワ川の上空から、ワルシャワの街の上を低く飛翔《ひしょう》しながら多数の紙片を撒いた。その紙片には、
「木曜日にワルシャワ陥《お》つべし」と書いてあった。何週の木曜日だか、正確な時日はわからなかったが、それが、ワルシャワの市街を、ほのかに運命づけたようにみえた。ワルシャワの市民は、この紙片を見て笑った。が、それは、嘲笑でもなければ、苦笑でもない、一種妙な、皮肉な笑い方であった。
ポーランド人が多いワルシャワの市民は、戦いについて、こんなことをいっていた。
「露兵が独兵を、遠く駆逐してくれればいい。そして彼らがワルシャワから、遠く離れてくれればいい」この彼らのうちは、独兵も露兵も、一緒に含まれていたのである。
亡国の氏として、露国の主権に服従していた人々には、今度、独軍がワルシャワを占領するということは、借家人が、いつの間にか、自分の家が売物に出ているのを知るのと、あまり変ったおどろきではなかった。
彼らは、タウベが飛んでいる空の下で、平気でアイスコーヒーやソーダ水を飲んでいたのである。
ワルシャワの衛戍隊《えいじゅたい》であったイワノウィッチの連隊も、戦場へ送られる日を待っていた。彼などはもう三十マイルと離れていない戦場で、敵、味方の照明弾が打ち上げられるのが明らかに見えた。
イワノウィッチには、急にいろいろな任務が割り当てられ出した。それが妙に夕暮から、夜にかけての仕事が多かった。
ダシコフの命令を、イワノウィッチは無意識に守っている形であった。リザベッタに会わずに四、五日が過ぎてしまった。
八月の三日であった。連隊にとうとう出動命令が下った。翌四日をもって、ワルシャワを撤退し、野戦軍と合すべく、ジラルドゥフ停車場方面の戦線へ進出せよというのであった。
イワノウィッチは、初めて、砲火の洗礼を受くべく、戦いの大渦巻の世に入らねばならなかった。
彼は、さすがにリザベッタのことが、忘れられなかった。戦場へ出ることは、ある程度まで死を意味していたのだから、彼は、リザベッタに最後の名残を告げようと思っていた。撤退の準備として、ワルシャワの工場は、もうたいてい火を掛けられていた。それと独機の爆弾のために起っている火事とで、ワルシャワの街は煌々《こうこう》と明るかった。イワノウィッチは、中隊長の目を盗んで、秘《ひそ》かにワジェンキの営舎を抜け出たのである。
道では、折々避難者の馬車に会った。彼らは家財や道具を崩れ落ちるほど馬車に積んで、停車場の方角へ急いでいた。
が、その晩もワルシャワの市民の大部分は、まだ落着いていた。芝居も活動小屋も興行を続けていた。今ワルシャワを占領している者も、彼らには他人であった。二、三日後にワルシャワを占領する者も、また彼らには他人であった。
その夜、リザベッタは、市街の混乱と騒擾《そうじょう》とを恐れて出演してはいなかった。彼女は極度に興奮していた。夏の夜に適《ふさわ》しい薄青い服を着て、ソファに倚《よ》りながら、不安な動揺にみちた瞳を輝かしながら市街に起る雑多な物音に脅えていた。
彼女は、イワノウィッチがドアを開けると、すぐ駆け寄りながら、
「ワルシャワは陥ちるのでしょうか」と深い憂慮に震えながら尋ねた。
「もちろんですとも」と、イワノウィッチは自分ながら、落着き過ぎると思うほど、落着いて答えた。そして、
「これが我々の最後の晩です」と付け加えた。が、リザベッタは淋しい微笑をもらしたばかりで、すぐ滅入ってしまった。
「あなたは、どこかへ逃げないのか? モスクワか、ペトログラードかへ」と、イワノウィッチが彼女に対して、深い愛情を表しながらきいた。
「モスクワ! ペトログラード! 私の故郷は、ワルシャワのほかには、どこにもない」と答えると、彼女は急に深い感傷的な興奮にとらわれながら、イワノウィッチの胸に、彼女の頭を埋めようとした。
その時である。この部屋のドアを、表から軽くノックする音がきこえた。彼女は、気軽に、
「ローナかい」と呼びかけた。彼女の召使いの老婆は、その日の夕方から、外出していたのであった。
「いや、ダシコフだよ」と、こう声がするかと思うと、鍵の掛っていなかったドアは、激しく押されて、驚愕したイワノウィッチとリザベッタとの眼前に、大尉ダシコフは、その長大な体躯を現したのである。それを見たリザベッタは、軽い叫声を挙げながらよろよろと後退りして、ソファの上に倒れてしまったのである。
イワノウィッチとダシコフの二人は、そこに永久に融和しがたき敵として、睨み合いながら突っ立ったのである。
「イワノウィッチ! わしは、今何もいわない。ただ、命令する! お前の兵営に帰れ! お前の義務が、それを要求するのだ、帰れ!」とダシコフは、唇を震わしながら怒鳴った。
イワノウィッチの顔も、憤怒ではち切れそうに見えた。彼の顔は、みるみる蒼白《まっさお》に転じかけた、が彼の心のうちに、最後の一夜だけ、女を競争者から確保しようという要求が、烈々として火のように燃え始めた。彼は、剣※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《けんは》を砕《くだ》けよと、握りしめながら、
「あなたの義務も、やはりそれを、要求するのだ、お帰りなさい」
「お前こそ」
「あなたこそ」
そこには、もう階級が存在しなかった。ただリザベッタとの、戦場に出ずる前の最後の――文字通りに最後の会合を、自分が独占しようとする必死《デスペレート》な競争の敵対関係のみが、存在していた。
ダシコフは自分の腕力を信じていたらしかった。彼は突然、イワノウィッチに躍りかかりながら、その首筋を掴んで、ドアの方へ引きずって行こうとした。怖ろしい格闘が起った。力において劣ったイワノウィッチは、敵のために、力いっぱい首筋を絞めつけられながら、ドアにぐいぐいと押さえつけられた。ダシコフは、もう自分の完全な勝利を信じていた。
「どうだ! わしは自分の命令を、完全に遂行する力を持っているのだ。本当の力を持っているのだ」彼はやや息を切らしながら、こう叫んだ。そして完全にイワノウィッチを室外に放逐するための、最後の努力をしようとしていた。その瞬間である、偶然自由を得たイワノウィッチの右の手は、自分の腰に吊した拳銃の革袋を探っていたのである。
ちょうどダシコフが、イワノウィッチを室外に引きずり出した時、奇妙に押し潰されたような拳銃の音が響いたかと思うと、大きいダシコフの身体がよろよろと室内に転げ込んだまま、激しい音をさせながら、そこに、へたばってしまった。そしてすぐそれを追うように、これもよろよろとしたイワノウィッチの蒼白《まっさお》な顔が現れた。イワノウィッチは、しばらくは、ダシコフのびくびくする四肢を、見つめながら茫然と立っていた。ダシコフの上着についた血のにじみが、みるみるうちに大きく広がっていく、蒼白に変っていく大尉の顔を見ていると、深い悔恨が、だんだんイワノウィッチの心を蝕《むしば》んでいった。
イワノウィッチは、悔恨のほかには何物もないような気持になって、軽い戦慄を覚え始めたのである。
ふと気がつくと、リザベッタは、先刻から興奮に痛められた神経が、最後の銃声によって止めを刺されたと見え、卒倒したまま蒼白な顔を電気の光に晒《さら》しているのであった。
イワノウィッチの心には、悔恨の根がいよいよ深く入っていった。彼は善良な学生であり、愛国的の熱情を湧かしていた自分の近い過去が思い出された。しかもその自分が、戦争に行く前夜に、上級の将校を殺したということが、彼には、もう恐ろしい罪悪として、心のうちにひしひしと感ぜられ始めてきた。
彼は、やや震えている自分の右の手にしっかりと拳銃を掴み直して、自分の咽喉へ擬したのである。
が、考えてみると、ここで命を捨てるのは、かなりにばからしいことであった。もう独軍の重砲弾が、盛んにワルシャワの外郭《がいかく》を見舞っている。自分は、夜が明ければ、この鏖殺的《おうさつてき》な砲弾の洗礼を受くべく戦場へ向うのである。拳銃よりも、敵の巨砲の方が自殺の凶器としてはど
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