れだけたのもしいものかも知れない。しかも、自分で自分を殺す代りに、独軍の砲弾なり銃剣なりで死ぬることは、ただ、自殺という見方からいっても、形式を少しく変えるというに過ぎなかった。
彼はこう思うと、そこに自分の進むべき闊然たる大道が開けているように思われた。彼は心を取り直した。戦いなるかな、自分の罪を償うためにも、最後の愛国的な興奮に副《そ》うためにも、ただ戦いがあるばかりだと思った。
彼は、そう決心すると、ソファに倒れているリザベッタのそばに近づいて、その冷たい額に軽い名残りの接吻《キッス》を与えた。彼女は、今明らかにダシコフ大尉のものではなかった。得々とした、勝利の感情をもって、死体と同様なリザベッタを見つめながら立っていると、妙な、悪魔的な心が彼の胸に湧いてきた。いかにも、リザベッタはダシコフ大尉のものではなかったが、果して彼女は、自分のものであろうか。ダシコフが、リザベッタと引き離されて、強制的に死の世界に送り込まれたように、自分も強制的に戦場へ送り込まれようとしているのだ。ダシコフの死骸が、リザベッタの所有者ではないように、彼も、彼女の所有者ではなかった。彼らが去れば、すぐ独軍の将校たちがワルシャワの歌妓たちの歓待を受けるのだ。お前は、独軍の将校たちの手のうちにお前の女を今手渡ししようとしているのだ、お前がここを去ったら、もうお前は再び帰ることはない。彼女を、お前はこのまま残して置くつもりなのか。お前はダシコフから完全に防御した獲物を、どうして確保しないのか。お前のものにする方法を知らないのか。それは彼女も、ついでにここで殺してしまうのだ。否、殺すのではない、あの女の卒倒している状態を、ただこのままに続けさせておけばいいのだ。ただ彼女を永久に覚めさせなければいいのだ。お前は、もうすぐ死ぬのではないか。その前に殺した人の数が単数であるか複数であるか、それがいかなる相違をなすのだ。リザベッタを完全にお前のものにしてしまえ! それはリザベッタの卒倒の状態をただいつまでも続けておきさえすればよいのだ。すべてが混乱だ。誰が殺したか、誰が殺されたか、分かるものか。今この街の外郭では、人間が幾万となく殺されかけているのだ。
お前は、自分の可愛い女を、お前の後に残して置くのか。この女は、お前に許したように、ダシコフにも許していたのだ。誰にでもすぐ自分を許す女は、ワルシャワへ入る最初の独軍の将校の持物になるだろう。この女は、独軍がワルシャワを占領しても、やはりアルトを歌っているのだ。そして、多くの独軍の将校が、お前が投げたように花輪を投げるのだ。この女を完全にお前のものにするのは、ただこの卒倒した状態をそのままにしておくのだ。この女を再び意識の世界へ帰さなければいいのだ。ただそれだけだ。
彼の頭は嵐のように混乱した。彼は再び拳銃を持ち直し、リザベッタのそばへ寄ったのである。
五
彼が戸外《おもて》へ出ると、外はもう宵よりも混乱の度を加えていた。そのうえ時々、タウベが落す爆弾の炸裂する声が、激しい騒擾《そうじょう》に更に恐怖と不安とを加えた。
大きい建物が、市街のあっちこっちで盛んに燃えていた。その炎で赤くただれた空に、細かい尖塔や円いドームが隠見した。
彼は、再び、深い悔恨に浸っていた。どうしても、この世に身の置き所のないような、深い深い悔恨に浸っていた。
×
八月五日の夜に、ワルシャワは陥ちた。イワノウィッチの属していた第五十五師団の第二連隊も、ワルシャワを撤退して、ヴィスワ川の右岸の戦線に就いたのであった。
大きい混乱であった。第二連隊では、副官のダシコフが行方不明になったことは誰の深い注意にも値しなかった。連隊長が、ちょっと首を傾げたまま、すぐ後任を任命したのである。
イワノウィッチは、隊伍のうちに加わりながら、大きい良心の呵責《かしゃく》を担っていた。彼は、勇敢に戦い、自分の生命をできるだけ高価に売ることを考えた。
彼の顔は、その頃からやや蒼白な色を帯び、狂犬のような瞳をしていた。戦友はそれを臆病だと解しようとしたが、彼は、それに抗議を申し込むでもなかった。が、戦友の誤解はすぐ解かれた。彼の勇敢な戦いぶりは、僚友の目をおどろかしたのである。戦うことによってすべてを忘れ、すべてを償おうと彼は思ったのである。
ワルシャワからコヴノに退却するまでに起った露軍の奇跡は、勇士イワノウィッチの五つの勲功である。
その頃の、ルスコエロー紙は、彼についてこんな記事を掲げていた。「陸軍士官候補生イワノウィッチは、人間として現しうる極度の勇気を発揮した。彼は五回、斥候としてあらゆる危険を冒し、露軍の重砲が敵手に陥るを防ぎ、五人の負傷せる戦友を援け帰った。彼はいかなる場合にも死を顧慮せず、否、ほとんど死に向って吶喊《とっかん》せんとするがごとき行動を現すことしばしばなりき。しかも、彼は、なんらの微傷だに負わず、今もなお勇敢に戦いつつあるが、陸軍当局は、彼に対して、サン・ジョルジェ十字勲章を与うべく進達したる由なり」とあった。
この新聞の記事は、まだ、彼の勇戦を十分には尽くさなかった。彼は率先してすべての危険を引き受けた。味方の斥候隊が敵と味方との陣地の中央に倒れた時、彼は必ず、収容のために、身を挺して赴《おもむ》いた。ことに彼がラウカの戦線で味方の負傷兵と重砲とを救った語は、ほとんど全軍に知れた話である。
が、彼はいくら奮戦しても、微傷さえも負わなかった。彼は自殺の短銃を独軍の砲弾にするつもりであった。が、その砲弾は、はなはだ頼りのない凶器であった。彼は、自ら死を追った。が、死は容易に彼の要求を、許さなかったのである。
そのうちに、彼の死場所が、とうとう得られたと思った。独軍に圧迫された露軍は、ヴィスワの戦線を追われ、湾曲した線をなしながら、だんだん露国の内地に退却して行った。コヴノの要塞にもう二十マイルという地点に接近した時であった。彼の大隊は、ライ麦の黄色く実った丘の上に、夜営を張った。その丘の六百メートルばかり右にも檜《ひのき》のまばらに生えているもう一つの丘があった。そこには、同じ五十五師団の野砲隊が、野営をしていた。翌朝、広い平原の上に夜が明けると、白い霧がいっぱいに、土地を圧していた。彼の隊へは早朝に来るはずの退却命令がどうしても来なかった。大隊長はやや焦り気味で、伝令を続けざまに、後方の師団司令部にやった。
すると、後方の、針葉樹の林に登った太陽が、濃い霧を透《すか》し始めると、左の丘には、やはり砲軍の姿がほのかに見えていた。隊長は安心した。味方の砲兵もまだ退却していないと思ったが、安心はすぐ裏切られた。その砲軍の一つが、不意に紅の舌を出したかと見る間に、朝の静かな天地を砲声が殷々《いんいん》とどよもして、五、六発の榴弾が、不意に味方の頭上に破裂したのである。味方の砲兵隊は、いつの間にか退却して独軍のそれが入れ替わっていたのであった。
大隊長はしばらく、失望にとらわれていた。が、この場合、退却するということは、すべての人間を敵の砲火の犠牲にすることであった。彼は直ちに、部下の大隊に戦闘隊形をとらした。イワノウィッチは、今こそ、死ぬべき時だと思った。味方は、ライ麦の畑を踏み荒しながら、散開した。がそれと同時に唸りながら飛んできた榴弾が、彼らの頭上に続けざま十二、三回破裂して、彼らの三分の一を奪ってしまった。
大隊に付属している三門の機関銃が、敵に対して、弱い、しかしながら緊張した反抗を始めたのであった。
が、十門に近い敵の野砲は、やすやすとその鏖殺《おうさつ》事業をやっている。六百メートルという近距離の射程では、地面を這う昆虫をさえ逃さなかった。
榴弾が破裂するごとに、二、三十人の兵卒を砕いた。一町にも足りない散兵線は、十分と立たぬ間にまばらになった。大隊長が、まず倒れた。三人の中隊長のうち、一人は戦死し、二人は傷ついた。
イワノウィッチは、いちばん左翼にいて、機関銃隊を指揮していた。敵の砲弾は一渡り戦列を荒すと、機関銃隊を最後の目標とした。操縦者がみるみるうちに倒れた。イワノウィッチは、敢然として、自ら機関銃の操射に当ったのである。
彼は、今日こそ自分の生命をいちばん高価に売ろうと考えた。彼は自分で銃弾を運び、自分で装填《そうてん》し、自分で狙った。見ると、味方の戦線からは銃声がほとんど絶えてしまった。ただ自分が操っている機関銃のみが反抗の悲鳴を続けているのであった。砲弾が、続けざまに彼の身辺で破裂した。
が、彼はもう気が上った人間のように、機関銃の引金を夢中で引いていた。この時には上官を殺した悔恨も、国家に対する忠節も、なんにもなかった。ただ、熱狂せる戦いがあった。ただ狂猛なる発作があった。敵の砲弾がしばらく途絶えたかと思うと、激しい空気が彼を襲ったと思う間もなく、大音響と共に、彼は大地に投げつけられて昏倒したのである。
が、その時、味方の危急を知って駆けつけた露軍の野砲隊が応戦の砲火を開いた。左の腕を切断され、右の大腿《ふともも》を砕かれ、死人のごとく横たわっているイワノウィッチの上で、露独の烈しい砲火が交《か》わされたのであった。
六
野戦病院の寝台の上で蘇生をしたイワノウィッチは、激しい熱病から覚めた人間のように、清霊《せいれい》な、静かな心持を持っていた。
彼には、なんらの悔恨もなかった。なんらの興奮もなかった。彼が歓楽の瞬間も、罪悪の瞬間も、戦線で奮闘した瞬間も、すべてがなんの感情も伴わずに、単なる事実として思い出された。もうすべてが、今からいかんともしがたい、前世の出来事のように思い出された。彼は、そのすべてが許され、そのすべてが是認されたようなのびのびした心持であった。煉獄を通ってきた後の朗かな心持であった。
時々、人を殺したということが、彼の心を翳《かげ》らそうとすることがあった。が、そんな時、彼は幾十万の人間が豚のごとく殺される時、そのうちの一人や二人が何かほかの動機から殺されても、何もそう大したことではないように思われた。恐らく、目の前であまり多くの人が殺し殺されるのを見たので、人殺しに対するイワノウィッチの感覚は、鈍ったのかも知れない。しかも彼自身、機関銃を操って、他の多くの人間を殺していたのである。
×
快い朝である。
新しい軍服を着たイワノウィッチは、いま揚々として病院の廊下を歩いている。すべてが巧くいった。彼は、こうした満足らしい心持しか心になかった。
「やっぱり、ダシコウが、俺に勲章をくれたことになる」彼はまたこう繰り返した。そして、彼はその皮肉を苦笑した。が、そんな回想は、今日、ニコライ太公からサン・ジョルジェ勲章を貰う欣《よろこ》びを少しでも傷つけるものではない。
彼は病院の廊下を揚々と闊歩している。籠の駒鳥はまた高らかに二、三度鳴き続けた。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:らぴす
1999年5月18日公開
2005年10月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング