わけである。其上、其の頃一人の座頭が、吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語って、いつか元就の城へも出入している。元就は、之を敵の間者と知って、わざと膝下《ひざもと》へ近づけていた。ある日、元就、老臣共を集め座頭の聞くか聞かないか分らぬ位の所で、わざと小声で軍議を廻《めぐ》らし、「厳島の城を攻められては味方の難儀であるが、敵方の岩国の域主、弘中三河守は、こちらへ内通しているから、陶の大軍が厳島へ向わぬよう取計らってくれるであろう」と囁《ささや》いていた。
座頭は鬼の首でもとったように、此事を陶方へ注進したのは勿論である。
弘治元年九月陶晴賢(隆房と云ったが、後晴賢と改む)二万七千余騎を引率し、山口をうち立ち、岩国永興寺に陣じ、戦《いくさ》評定をする。晴賢は飽く迄スパイの言を信じ、厳島へ渡って、宮尾城を攻滅《せめほろぼ》し、そして毛利の死命を制せんという考である。
岩国の城主弘中三河守|隆兼《たかかね》は、陶方第一の名将である。元就の策略を看破して諫めて、「元就が厳島に城を築いている事を後悔しているのならば、それを口にして言うわけはない。元就の真意は、厳島へ我が大軍をひきつけ、安否
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