寛厚慈悲家康に過ぐるものがある。其の謀略を用いる点に於ては家康よりはずっと辛辣《しんらつ》である。厳島合戦の時、恰度《ちょうど》五十二歳の分別盛りである。長子隆元三十二歳、次子|吉川《きっかわ》元春二十三歳、三子隆景二十二歳。吉川元春は、時人《じじん》梅雪と称した。
熊谷伊豆守の娘が醜婦で、誰も結婚する人が無いと聞き、其の父の武勇にめでて、「其の娘の為めにさぞや歎くらん。我婚を求むれば、熊谷、毛利の為めに粉骨の勇を励むらん」と言って結婚した男である。
乃木将軍式スパルタ式の猛将である。三男の隆景は時の人これを楊柳とよんで容姿端麗な武士であった。其の才略抜群で後《のち》秀吉が天下経営の相談相手となり、秀吉から「日本の蓋でも勤まる」と言われたが、而も武勇抜群で、朝鮮の役《えき》には碧蹄館《へきていかん》に於て、十万の明《みん》軍を相手に、決戦した勇将である。だから元就は「子までよく生みたる果報めでたき大将である」と言われた。
だが此時毛利は芸州吉田を領し、其所領は、芸州半国にも足らず、其の軍勢は三千五、六百の小勢であった。これに対して、陶晴賢は、防、長、豊、筑四州より集めた二万余の大
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