ういって、皆に気を持たせた。
「うむ!」
「うむ!」
 中間たちは、口々に呻った。
「抜打の勝負じゃ。はははははは」嘉平次は、浩然として笑った。
 一座はしーんとした。
「柄に手がかかったと思ったときには、もう相手の肩口から迸った血が、さっと、まだ替えてから間もない青畳の上に散っていた」
 実際、嘉平次の頭の中にも、そうした光景がまざまざと浮んだ。
「ほほう!」
「うむ!」
 中間たちの感嘆は絶頂に達した。
「家人なども、定めし出合いましたろうな」
 中間頭の左平の言葉遣いまでが、すっかり改まっていた。中間たちは、嘉平次が斬りかかる中間小者などを、左右に斬り払う勇壮な光景を予想していた。が、嘉平次はもっと別な点で、自分の武士を上げたかった。
「いや、中間小者などは、俺の太刀先に恐れをなして誰一人向かって来ぬ。が、さすがに連れ添う内儀じゃ。夫の敵とばかり、懐剣を逆手に俺に斬りかかって来た」
 話が急に戯曲的な転回をしたので、一座ははっとどよめいた。嘉平次は、自分の話の効果を確かめるように、悠然と一座を見回した。
「不憫ながら、一刀の下におやりなすったか」お庭番の中間が、待ちきれないようにきいた。さっきのように、煽て半分、揶揄《からかい》半分の口調などは微塵も残っていなかった。
「そうは思ったが、あまりに不憫でな。しかもまだ縁付いてきてから一年にもならない若い内儀じゃ。ことに、深い宿意があって打ち果したという敵じゃなし、女房の命まで取るのは無益《むやく》だと思ったから、斬りかかる懐剣の下を潜って、相手の利腕を捕えた。はははは、その時には、女と思って油断をしたために、つい薄手を負ったのが、この二の腕の傷じゃ」
 彼は、自分の腕をまくって、二の腕の傷を見せた。それは、彼が丸亀を退散して、京の四条の茶屋の板前を勤めていたとき、血気の朋輩と喧嘩をして、お手の物の包丁で斬りつけられた傷である。彼は、それを時にとっての証拠として、自分の話に動かせない真実性を加えたのであった。彼は、自分の当意即妙に、自分で感心した。
「どれ! どれ!」一座のものは、杯盤の間を渡って来て、彼の傷に見入った。もう、誰一人として、彼の話を疑っているものはなかった。
「それで、その内儀はどうなすった!」
 皆は話の結末をききたがった。
「持っていた懐剣を放させて、そこへ突き放したまま悠々と出てきたが、さすがに、後を追うて来るものはなかった。その足で、すぐ退転いたしたが、もう二十年に近い昔じゃ。今から考えると短慮だったという気もするが、武士の意地でな。武士としてこれ堪忍ならぬところじゃ!」
「道理じゃなあ。が、御身様の仕儀に、一点のきたないところもない。それをいい立てて、立派な主取りでもできるくらいじゃ」
「料理人などをさせておくのは、まったくもって惜しいものだ! 推挙さえあれば、その腕で三十石や、五十石はすぐじゃ!」
 嘉平次は、鷹揚に笑った。
「こう年が寄ると、仕官の望みなぞは、毛頭ないわ。御身たちにこうして昔話などするのが、何よりの楽しみじゃ」
「嘉平次殿のお杯を頂戴しよう」
 皆は次々に嘉平次の杯を貰った。
 彼は生れて六十幾年の間に、今宵ほど、得意な時はなかった。彼は、平生の大酒に輪をかけて、二升に近い酒を浴びていた。
 その夜、大酔した嘉平次が、蹣跚《まんさん》として自分のお長屋へ帰ろうとして、台所口を出たときだった。
「親の敵!」という悲痛な叫びと共に、匕首《あいくち》が闇に閃いたかと思うと、彼は左の脇腹を抉《えぐ》られて、台所口の敷居の上に、のけざまに転倒した。
 家人たちが、銘々酔顔を提《さ》げて駆け集ったとき、つい先頃奉公に上ったばかりの召使いのおとよ[#「おとよ」に傍点]という女が、半身に血を浴びながら、
「親の敵を討ちました。親の敵を討ちました」と、絶叫していた。
 幸田とよ[#「とよ」に傍点]女の敵討は、丸亀藩孝女の仇討として、宝暦年間の江戸市中に轟き渡った。江戸の市民は、まだ二十になるかならぬかのかよわい少女の悲壮な振舞いを賛嘆し合った。とよ[#「とよ」に傍点]女の仇討談が、読売にまで歌われていた。それによると、父の幸田源助が討たれたとき、とよ[#「とよ」に傍点]女は、母の胎内に宿ってから、まだ三月にしかなっていなかった。母は、夫の横死の原因が自分であることを知っていたために、亡夫のために貞節を立て通した。とよ[#「とよ」に傍点]女が十六のときに、母は不幸にして、他界した。彼女は、死床にとよ[#「とよ」に傍点]女をよんで、初めて父の横死の子細を語って、仇討の一儀を誓わしめたというのであった。貞節悲壮な母子《おやこ》に対する賞賛は、江戸の隅々にまで伝わった。
 嘉平次が、敵の鈴木源太夫であることについて誰も疑いを挟まなかった。町奉行の役人が、検死の時、念のためにというので、丸亀藩の屋敷へ人を迎えにやったが、ちょうど藩主が在国していたので、定府たちの間には、鈴木源太夫を見知っているものは、一人もいなかった。
 ただ、当人のとよ[#「とよ」に傍点]女だけには、敵の傷の場所が、母の遺言の通り、眉間になくして、二の腕にあったのが、ちょっと気になった。が、すぐ、母は夫を打たれたときに気が動転していたために、相手の眉間に飛びついていた血潮を、手傷だと思い違ったのだろうと思い直した。
 とよ[#「とよ」に傍点]女の孝節が、藩主の上聞に達して、召し還された上、藩の家老の次子を婿養子として、幸田の跡目を立てられて、旧知の倍の百石を下しおかれたのは、同じ宝暦五年の九月のことである。



底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
   1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:大野 晋
2000年8月26日公開
2003年9月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング