、瞋恚の心を捨てて弁道の道にいそしんでいる者が、敵の紋所を見たからといって、心をみだすべきではない。それは捨て去ったはずの煩悩に囚われることである。まして、広い日本国中に、二つない紋所とは限っていない。故郷の松江でこそ珍しい紋所でも、他国へ行けば、数多い紋所であるかもわからない。実際、江戸の町住居《まちずまい》をしたとき、通りがかりの若衆が同じ定紋を付けているのを見て、すわや敵の縁者とばかり、後をつけて行って、彼が敵とは縁も由縁《ゆかり》もない、旗本の三男であることを、突き止めたことさえある。おそらくこの老僧も、かの若衆と同じ場合であろう。十六年の間、もがき苦しんでも邂逅《かいこう》し得えなかった敵に、得度した後に、悟道の妨げになるようにと偶然会わせるほど、天道は無慈悲なものではあるまい。もしまたそれが正真の敵であったとして、自分はどうしようというのだ。僧形になっている身で、人を殺すことはできない。一旦、還俗《げんぞく》した後、僧形になっている敵を討ってめでたく帰参しようというのか。おめおめと敵を討ち得ないで出家した者が、敵が見つかったからといって、還俗することは、そのこと自身において
前へ
次へ
全36ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング