に、後を追うて来るものはなかった。その足で、すぐ退転いたしたが、もう二十年に近い昔じゃ。今から考えると短慮だったという気もするが、武士の意地でな。武士としてこれ堪忍ならぬところじゃ!」
「道理じゃなあ。が、御身様の仕儀に、一点のきたないところもない。それをいい立てて、立派な主取りでもできるくらいじゃ」
「料理人などをさせておくのは、まったくもって惜しいものだ! 推挙さえあれば、その腕で三十石や、五十石はすぐじゃ!」
 嘉平次は、鷹揚に笑った。
「こう年が寄ると、仕官の望みなぞは、毛頭ないわ。御身たちにこうして昔話などするのが、何よりの楽しみじゃ」
「嘉平次殿のお杯を頂戴しよう」
 皆は次々に嘉平次の杯を貰った。
 彼は生れて六十幾年の間に、今宵ほど、得意な時はなかった。彼は、平生の大酒に輪をかけて、二升に近い酒を浴びていた。
 その夜、大酔した嘉平次が、蹣跚《まんさん》として自分のお長屋へ帰ろうとして、台所口を出たときだった。
「親の敵!」という悲痛な叫びと共に、匕首《あいくち》が闇に閃いたかと思うと、彼は左の脇腹を抉《えぐ》られて、台所口の敷居の上に、のけざまに転倒した。
 家人たち
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