振鈴に床を蹴って起き上ることも、あまり苦痛ではなくなった。午前午後の作務、日中|諷経《ふぎん》、念経、夜座《やざ》も、日常の生活になってしまった。
挂塔《けいとう》を免《ゆる》されたのが、去年の霜月であったから、安居《あんご》はまだ半年に及んだばかりであったけれども、惟念の念頭からは、諸々《もろもろ》の妄念が、洗わるるごとくに消えて行った。心事は元より未了であったけれども、心《しん》澄み、気冴えた暁天の座などには、仏種子《ぶっしゅし》が知らず知らず増長して、かすかながらも、悟道に似た閃きが、心頭を去来することがあった。
親の敵《かたき》を求めて、六十余州を血眼になって尋ね歩いた過去の生活が、悪夢のように思い出される。父親を打たれたときの激怒、復讐を誓ったときの悲壮な決心、それが今でもまざまざと思い出されるが、もう実感は伴わない。四、五年の間は、関東関西と、梭《おさ》のように駆け回った。が、そのうちに、こんなに焦っても、時機が来なければ討てるものではないと考えた。彼は、江戸に腰を落ち着けて、二年ばかりゆっくりと市中を尋ね歩いた。が、敵の噂をさえきくことができなかった。彼はまた焦りはじ
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