恐ろしい空虚が、彼の心を閉した。すべてが煙のように空《むな》しいことに思われた。千辛万苦のうちに過した十六年の旅が、ばかばかしかった。敵に対する憎悪も、武士の意地も、亡父への孝節も、すべてが白々しい夢のように消えてしまった。
 彼は間もなく、浪華に近い曹洞の末寺に入って得度《とくど》した。そこで、一年ばかりの月日を過してから、雲水の旅に出て、越《こし》の御山《みやま》を志して来たのである。
 瞋恚《しんい》の念が、洗われた惟念の心には、枯淡な求《もとめ》の道の思いしか残っていなかった。長い長い敵討の旅の生活が、別人の生涯のようにさえ思われはじめた。
 その日は、維那《ゆいな》和尚から薪作務《まきさむ》のお触れが出ていた。ほがらかな初夏の太陽が老杉を洩れて、しめっぽい青苔《あおごけ》の道にも明るい日脚が射していた。
 百名を越している大衆に、役僧たちも加わった。皆は思い思いの作務衣《さむえ》を着て、裏山へ分け入った。ぼろぼろになった麻衣《あさごろも》を着ているものもいた。袖のない綿衣《わたごろも》を着ている者もあった。雲水たちの顔が変っているように、銘々の作務衣も変っていた。惟念には初めての薪作務が、なんとなく嬉しかった。彼は僧堂の生活に入って以来、両腕に漲《みなぎ》ってくる力の過剰に苦しんでいた。
 杣夫《そま》が伐ってあった生木を、彼は両手に抱えきれぬほどの束にした。二十貫に近い大束を軽々と担ぎ上げた。勾配のかなり激しい坂を、駆けるように下って来た。二十間ばかり勢いよく馳せ下った彼は、先に行く雲水を追い越すわけにもいかないので、速度を緩めた。その男の担いでいる束は、彼の束の三分の一もなかった。が、その男は、その束の下で、あやうげに足を運んでいる。
 広い道へ出るまでは、追い越すわけにはいかなかった。彼は、その男について歩いた。見るともう六十に近い老人である。同参の大衆ではなく、役僧であることがすぐ分かった。半町ばかり後からついて行くうちに、彼は老僧の着ている作務衣に気がついた。老僧の作務衣は、その男が在俗の時に着た黒紋付の羽織らしかった。その羽二重らしい生地が、多年の作務に色が褪せて、真っ赤になっている。紋の所だけは、墨で消したと見え、変に黒ずんでいる。惟念はついおかしくなって思わず微笑をもらした。が、ふとその刹那にこの人も元は武士《さむらい》だったなと思った
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