めた。江戸を立って久しぶりに東海道を上ったのが、元禄三年の秋で、故郷の松江を出てから八年目、彼は三十の年を迎えていた。畿内から中国、九州と探し歩いたそれからの三年間にも、彼は敵に巡り合わなかった。江戸を出るときに用意した百両に近い大金も、彼が赤間ヶ関の旅宿で、風邪の気味で床に就いた時には、二朱銀が数えるほどしか残っていなかった。
 彼は、門付《かどづけ》をしながら、中国筋を上って、浪華《なにわ》へ出るまでに、半年もかかった。浪華表の倉屋敷で、彼は国元の母からの消息に接した。母は、自分が老衰のために死の近づいたのを報じて、彼が一日も早く仇を討って帰参することを、朝夕念じていると書いていた。彼は、母の消息を手にして、心が傷《いた》んだ。十一年の間、空しく自分を待ちあぐんでいる痛ましい母の心が、彼を悲しませた。彼は新しい感激で、大和から伊勢へ出て、伊勢から東山道を江戸へ下った。が、敵《かたき》らしいものの影をさえ見なかった。尋ねあぐんだ彼は、しようことなしに奥州路を仙台まで下ってみた。が、それも徒労の旅だった。江戸へ引っ返すと、碓氷峠を越えて信濃を経て、北陸路に出て、金沢百万石の城下にも足を止めてみた。が、その旅も空しい辛苦だった。近江から京へ上ったのが、元禄九年の冬の初めである。国を出てから、十四年の月日が空しく流れていた。故郷の空が、矢も楯もたまらないように恋しかった。二十二で、故郷を出た彼は、すでに初老に近かった。母が恋しかった。安易な家庭生活が恋しかった。無味単調な仇討の旅に、彼はもう飽き飽きしていた。が、一旦、仇討を志した者が、敵《かたき》を討たないで、おめおめと帰れるわけはなかった。行き暮れて辻堂に寝たときとか、汚い宿に幾日も降り籠められていたときなどには、彼はつくづく敵討が嫌になった。彼は、いっそ京か浪華かで町人になり下って、国元の母を迎えてのどかな半生を過そうかとさえ思った。が、少年時代に受けた武士《さむらい》としての教育が、それを許さなかった。彼は自分の武運の拙さが、しみじみ感ぜられた。それと同時に、自分の生涯をこれほど呪っている父の敵が、恨めしかった。彼は敵に対する憎悪を自分で奮い起しながら、またまた二年に近い間、畿内の諸国を探し回った。
 浪華の倉屋敷で、国元の母が死去したという知らせを得たのは、彼が三十八の年である、故郷を出てから十六年目であった。
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