分かっている。長い間、拙者を待っていて下さるお心は、身にしみて嬉しい。今も、そなたを妻同然に思っている。しかし、夫婦の契りだけは、心願のことあって、今しばらくはできぬ。そなたも心苦しいだろう、拙者も心苦しい。が、あきらめていてもらいたい。そのうちには、妻と呼び夫と呼ばれる時も、来るでござろう」
新一郎の言葉には、真実と愛情とが籠っていた。
お八重は、わあっと泣き伏してしまった。
が、しばらくして泣き止むと、
「失礼いたしました。おゆるし下さいませ」というと、しとやかに襖を開けた。
(お八重どの!)新一郎は、呼び返したくなる気持を危く抑えた。
六
万之助は、上京の目的を改めて話すといったままで、そのままになっていた。そして、新一郎の屋敷へ来てからも、毎日のように出かけて行った。
最初は、学問の稽古に出かけているのかと思っていると、女中などの話では、剣術の稽古に通っているとのことで、新一郎は何かしら不安な感じがしたので、ある晩、万之助を膝元に呼んで、
「そなたは、毎日剣術の稽古に通っておられるとのことであるが、本当か」と、きいた。
「はあ」
万之助は、素直に頷いた。
「さようか。それは少しお心得違いではないだろうか。今、封建の制が廃《すた》れ、士族の廃刀令も近々御発布になろうという御時世になって、剣術の稽古をして、なんとなされるのじゃ。それよりも、新しい御世に身を立てられるために、文明開化の学問をなぜなさらぬのじゃ。福沢先生の塾へでもお通いなされては、どうじゃ」
万之助は、しばらくうつむいて黙っていたが、やがて、
「お兄様には、まだ申し上げませんでしたが、子細あって、剣法の稽古をいたしておりまする」
「子細とはなんじゃ」
「万之助は、敵討がしたいのでございます」
「えっ!」新一郎は、ぎくっとして、思わず声が高くなった。
「父頼母を殺された無念は、どうしても諦めることができません」
「……」
新一郎は、腸《はらわた》を抉《えぐ》られるような思いがして、口が利けなかった。
「私は、父が側《わき》腹を刺され、首を半分斬り落されて倒れている姿を見ました時、たとい一命は捨てても、敵に一太刀報いたいと決心したのでございます。が、御維新になりまして、敵討などももう駄目かと諦めておりましたところ、明治三年に御発布になりました新律綱領によりますと、
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