吉良上野の立場
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)内匠頭《たくみのかみ》
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一
内匠頭《たくみのかみ》は、玄関を上ると、すぐ、
「彦右衛《ひこえ》と又右衛《またえ》に、すぐ来いといえ」といって、小書院へはいってしまった。
(そらっ! また、いつもの癇癪だ)と、家来たちは目を見合わせて、二人の江戸家老、安井彦右衛門と藤井又右衛門の部屋へ走って行った。
内匠頭は、女どもに長上下《ながかみしも》の紐を解かせながら、
「どうもいかん! また物入りだ! しょうがない!」と、呟いて、袴を脱ぎ捨てると、
「二人に早く来るよう、いって参れ!」と催促した。
しばらくすると、安井彦右衛門が、急ぎ足にはいって来て、
「何か御用で!」といって、座った。
「又右衛は?」
「お長屋におりますから、すぐ参ります」
「女ども、あちらへ行け! 早く行け!」と、内匠頭が手を振った。女は半分畳んだ袴、上下を、あわてて抱いて退ってしまった。
「例の京都からの勅使が下られるが、また接待役だ」
「はっ!」
「物入りだな」
「しかし、御名誉なことで、仕方がありませんな」
「そりゃ、仕方がないが……」と、内匠頭がいったとき、藤井又右衛門が、
「遅くなりました」といって、はいって来た。
「又右衛門、公儀から今度御下向の勅使の御馳走役を命ぜられたが、それについて相談がある」
「はい」
「この前――天和三年か、勤めたときには、いくら入費がかかったか?」
「ええ……」二人は、首を傾けた。藤井が、
「およそ、四百両となにがしと思いますが」
「そのくらいでした」と、安井が頷いた。
「四百両か! その時分《じぶん》と今《いま》とは物価が違っているから、四百両では行くまいな。伊東出雲《いとういずも》にきくと、あいつの時は、千二百両かかったそうだ」
「あの方のお勤めになりましたのは、元禄十年――たしか十年でしたな」
「そうだ」
「あのとき、千二百両だといたしますと、今日ではどんなに切りつめても、千両はかかりましょうな」
内匠頭は、にがい顔をした。
「そんなにかかっちゃ、たまらんじゃないか。わしは、七百両ぐらいでどうにか上げようと思う」
「七百両!」と、二人は首を傾けた。
「少なすぎるか」
「さあ!」
二人は、浅野が小大名として、代々節倹している家風を知っていたし、内匠頭の勘定高い性質も十分知っていたので、
「それで、結構でしょう」と、いうほかはなかったが、伊東出雲とて、少しも裕福でないのに、その伊東が千二百両かけたとしたら、御当家が七百両では少しどうかしらと、二人とも思っていた。
「第一、近頃の世の中はあまり贅沢になりすぎている。今度の役にしても、肝煎りの吉良に例の付届をせずばなるまいが、これも年々額が殖えていくらしい」
「いいえ、その付届は、馬代金一枚ずつと決っております」
「それだけでも、要らんことじゃないか。吉良は肝煎りするのが役目で、それで知行を貰っているのだ。わしらは、勅使馳走が役の者ではない。役でない役を仰せつかって、七、八百両みすみす損をする。こっちへ、吉良から付届でも貰いたいくらいだ」
二人の家老は頷くよりほかはなかった。
二
用人部屋へ戻って来た二人は、
「困ったなあ!」といって、腕組みをした。
「吉良上野という老人は、家柄自慢の臍曲りだからな」
「家柄ばかり高家で、ぴいぴい火の車だからなあ」
「殿様は、賄賂《わいろ》に等しい付届だと、一口におっしゃるが、町奉行所へだって献残(将軍へ献上した残り物と称して、大名が江戸にいる間、奉行の世話になった謝礼として、物品金子を持参することをいう)を持ち込むのだからな。大判の一枚や小判の十枚ぐらいけちけちして、吉良から意地の悪いことをされない方がいいがな。もしちょっとした儀式のことでも、失敗があると大変だがな」
「しかし、前に一度お勤めになったから、その方は大丈夫だろうが、七百両で仕切れとおっしゃるのは、少し無理だて」
「無理だ」
「勅使の御滞在が、十日だろう」
「そうだ」
「一日百両として、千両。前の時には日に四十両で済んでいるが、天和のときの慶長小判と今の鋳替《ふきかえ》小判とでは、金の値打が違っているし、それに諸式が上っているし……」
「御馳走の方も、だんだん贅沢になってきているし……」
「そうさ。出雲だって千二百両使っているのに、浅野が七百両じゃ……ざっと半分近いのでは、勅使に失礼に当るからなあ」
「困った」
「困ったな。急飛脚でも立てて、国元の大野か大石かに殿を説いてもらう法もあるが、大野は吝《けち》ん坊で、七百両説に大賛成であろうし、大石は仇名の通り昼行灯で、算盤珠のことで殿に進言するという柄ではないし……」
「困ったな。
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