いか!」
気合をかけたらしい、鋭い声がした。近い廊下の雨戸が、叩き落されたらしい音がした。同時に、どっかの板塀にかけやを打ち込んでいるらしい音が、つづけざまにきこえた。
「浅野浪人かな?」
上野は、有明の消えている闇の中で脇差をさぐり当てた。
と、薄い灯の影がさして、
「御前」側用人が、叫んではいって来た。
「狼籍者が、押し込みました」
「浅野浪人か」
「そうらしいです。すぐお立退きを」
上野は、あわてて起き上った。太刀打ちの音がした。掛け声がきこえた。人の足音が、庭に廊下に部屋に、入りみだれかけた。
「こちらへ!」
「どこへ行く」
「お早く、お早く」
側用人は、勝手口に出て、戸を引き開けた。雪あかりであった。いろいろな物音が、冴えかえって、はっきりときこえてきた。用人は、炭小屋の戸をあけて、
「ここへ!」といった。上野は、裸足のまま中へはいると、用人はすぐ戸をしめてしまった。
「大勢か」
「五、六十人。裏と表から」
「五、六十人!」
上野は、そんなに大勢の人間が、浅野の家来の中から、自分を討つために残っていようとは思えなかった。
「外の加勢でもあるのではないか」
「さあ」
「別に悪いことをせん人間が、喧嘩を売られて傷を受け、世間からは憎まれた上に、また後で敵として討たれるなんて、こんなばかなことがあるものか」
上野は、世間や敵討といったような道徳に、心の底からしみ出て来る怒りを感じた。
「御前、しっ、黙っていないと、見つかります」
上野は、呟くのを止めた。炭小屋の中はしんしんとして冷え渡っていた。外の人の叫び、足音は、だんだん激しくなってきた。
「本当に、浅野浪人か」
「そうらしいです」
「これで、俺が討たれてみい、俺は末世までも悪人になってしまう。敵討ということをほめ上げるために、世間は後世に俺を強欲非道の人間にしないではおかないのだ。俺は、なるほど内匠頭を少しいじめた。だが、内匠頭は、わしの面目を潰すようなことをしている。わしの差図をきかない上に、慣例の金さえ持って来ないのだ。これはどっちがいいか悪いか。しかし、先方が乱暴で、刃傷《にんじょう》といった乱手《らんて》をやるために、たちまち俺の方が欲深のように世間でとられてしまった。あいつはわしを斬り損じたが、精神的にわしは十分斬られているのだ。それだのに、まだ家来までがわしを斬ろうなどと、主人に
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